フェルディナンド1世_(ナポリ王)
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フェルディナンド1世
Ferdinando I
ナポリ国王
フェランテ王の大理石胸像、ナポリ工房、ルーヴル美術館
在位1458年 - 1494年

出生 (1423-06-02) 1423年6月2日
アラゴン王国
死去 (1494-01-25) 1494年1月25日(70歳没)
ナポリ王国
埋葬 ナポリ王国ナポリ、サン・ドメニコ・マッジョーレ教会
配偶者イザベル・ド・クレルモン
 ジョヴァンナ・ダラゴーナ
子女一覧参照
家名トラスタマラ家
王朝トラスタマラ朝
父親アラゴン王アルフォンソ5世
母親ゲラルドーナ・カルリーノ
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フェルディナンド1世(Ferdinando I, 1423年6月2日 - 1494年1月25日)は、ナポリ王(在位:1458年 - 1494年)。ドン・フェランテ(Don Ferrante)とも呼ばれる。ナポリ王・アラゴンアルフォンソ5世の非嫡出子ながら王位を継承した。
生涯

アルフォンソ王と、おそらくナポリ貴族の娘だったゲラルドーナ・カルリーノの間の非嫡出子として生まれる[1]。父王は1442年にナポリ王国を征服すると、後継者となるが庶子で立場の弱いフェランテに、ナポリ王国最大の諸侯であるターラント公ジョヴァンニ・アントニオ・オルシーニの姪で相続者であるイザベル・ド・クレルモンを娶らせ、息子の地位を強化した。

1458年6月末、父王の没後その遺言により35歳で王位を継承。時の教皇カリストゥス3世は庶子に過ぎないフェランテの王位を認めず、アラゴン家は王統が絶えたとしてナポリをローマ教会の封土に回収することを宣言したが、8月初めに亡くなり、次の教皇ピウス2世は対トルコ政策におけるイタリア諸国の結束を優先する政策を採り[2]、フェランテをナポリ王と認めたため、いったんは事なきを得た。

翌1459年、今度は王妃の伯父ターラント公を頭目とする国内の領主層による大規模な反乱が始まった。反乱者たちはアラゴン家の王位をめぐる宿敵アンジュー家ルネ王の息子ジャン・ダンジューに王冠を提供しようと画策していた。ジャンはジェノヴァ共和国の手助けで艦隊を引き連れて海路でナポリ領内に侵入、ノチェーラなど数都市を手中に収めた。1460年7月7日、フェランテ軍はヴェスヴィオの南麓、サルノ川(英語版)がナポリ湾に注ぐ河口部でアンジュー派の軍勢に敗北、危うく捕虜になるところを助けられ、20名ほどの護衛の者たちと一緒に逃走した。教皇ピウス2世とミラノ公フランチェスコ・スフォルツァは、同盟者のフェランテを救おうと傭兵隊長フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ及びアレッサンドロ・スフォルツァの援軍を派遣したがサルノ川の戦いに間に合わず、彼らもまたサン・ファブリアーノでアンジュー派の軍勢に壊滅させられた[3]フェランテの姿を刻んだ貨幣

カンパーニャ州の要塞の大半がアンジュー派反乱軍の軍門に降ったにもかかわらず、ジャン・ダンジューは首都ナポリに攻め入ろうとしなかったため、フェランテは王としての立場を徐々に回復できた。イザベル王妃は実家ターラント公家を説得してアンジュー派から離反させるのに大いに貢献した。教皇庁、ミラノ公、父アルフォンソ王に恩義を感じているアルバニア人首長スカンデルベグらの援軍が集まり、フェランテの軍は1462年8月18日、ジャン・ダンジューの軍にトローイアで大勝した。1464年までに、一部の不満分子の怨嗟を残しつつもフェランテはナポリ王としての権威を取り戻した。ジャン・ダンジューの艦隊はナポリ沿岸部に脅威を与えていたが、1465年7月にフェランテと叔父のアラゴン王フアン2世の海軍によってイスキア島で殲滅された[4]金羊毛勲章を付けたフェランテの細密画(部分)

1463年王妃イザベルによる相続を通じてターラント公領(英語版)、レッチェ伯領(英語版)その他のプッリャ州の諸封土がフェランテの王領地に組み込まれたことは、王室財政を潤してフェランテの王権をより強大化させた。フェランテは父王とは対照的に国内問題に関心を向け、豊かな王室財政を背景に、国王直属の諸都市を保護し、道路や橋梁を整備し、取引税免除の大市を新設し、流通を活発化させ、経済発展を促進した[5]。フェランテの統治下で、王都ナポリは地中海海域における一大商品集散地の一つに成長し、国内人口の一極集中が進んだ[6]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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