フェルディナント・ラッサール
フェルディナント・ラッサール
Ferdinand Lassalle1860年のラッサール
人物情報
生誕1825年4月11日
プロイセン王国
シュレージエン州
(ドイツ語版)
ブレスラウ
死没 (1864-08-31) 1864年8月31日(39歳没)
スイス、 ジュネーブ州
カルージュ
出身校ブレスラウ大学、ベルリン大学
学問
時代19世紀中頃
学派国家社会主義
研究分野ヘーゲル哲学・社会主義・プロイセン労働運動
特筆すべき概念夜警国家、普通選挙、生産組合、事実的権力関係[1]
主要な作品『ヘラクレイトスの哲学』
『既得権の体系』
『労働者綱領』
『公開回答書(ドイツ語版)』
『間接税と労働者階級』
影響を受けた人物ヘラクレイトス[2]、フィヒテ[3]、ヘーゲル[4][3]、ハイネ[5][6][3]、ベルネ[5][3]、サン=シモン[7]、フーリエ[7]、ルイ・ブラン[7]、ワーグナー[8]、ローレンツ・フォン・シュタイン[3]、マルクス[9]、エンゲルス[9][10]
影響を与えた人物ビスマルク、幸徳秋水[11]、片山潜[11]、ゲオルグ・イェリネック[12]、ルドルフ・シュタムラー[13]
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フェルディナント・ヨハン・ゴットリープ・ラッサール(Ferdinand Johann Gottlieb Lassalle, [la?sal]、1825年4月11日 - 1864年8月31日)は、プロイセンの政治学者、哲学者、法学者、社会主義者、労働運動指導者。
ドイツ社会民主党(SPD)の母体となる全ドイツ労働者同盟の創設者である。社会主義共和政の統一ドイツを目指しつつも、ヘーゲル哲学の国家観に強い影響を受けていたため、過渡的に既存のプロイセン王政(特に宰相オットー・フォン・ビスマルク)に社会政策やドイツ統一政策を取らせることも目指した。その部分を強調して国家社会主義者に分類されることもある。
概要1825年にプロイセン東部ブレスラウに裕福なユダヤ人絹商人の息子として生まれる。商業学校からギムナジウムへ進学した。商業学校時代にハイネやベルネなどの著作から最初の革命思想の影響を受けた(→生い立ち)。ブレスラウ大学、ついでベルリン大学へ進学し、ヘーゲル哲学の影響を受けた。ヘーゲルの弁証法に似た部分のある古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスの流転の素因の研究を行った(→大学時代)。
ハッツフェルト伯爵家
(ドイツ語版)の伯爵夫人ゾフィー(ドイツ語版)と親しくなり、1846年から1854年にかけて学問を中断して彼女の離婚訴訟を代行した(→ハッツフェルト伯爵夫人の離婚訴訟)。1848年革命の際には、この離婚訴訟が反封建主義闘争の一つとしてライン地方の革命派から注目され、一躍有名人となった。マルクスら他のライン地方の革命家と連携して革命の指導にあたったが、同革命は失敗に終わり、ラッサールも官憲に逮捕されて禁固6か月の刑に服した(→1848年革命をめぐって)。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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