フェルディナント・フォン・プロイセン
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フェルディナント
Ferdinand
ホーエンツォレルン家


出生 (1730-05-23) 1730年5月23日
プロイセン王国ベルリン
死去 (1813-05-02) 1813年5月2日(82歳没)
プロイセン王国ベルリン
埋葬 プロイセン王国ベルリン大聖堂
配偶者アンナ・エリーザベト・ルイーゼ・フォン・ブランデンブルク=シュヴェート
子女一覧参照

フリーデリケ
ハインリヒ
ルイーゼ
クリスティアン
ルイ・フェルディナント
パウル
アウグスト

父親フリードリヒ・ヴィルヘルム1世
母親ゾフィー・ドロテア・フォン・ハノーファー
役職聖ヨハネ騎士団ブランデンブルク大管区長(1762年 - 1811年)
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フェルディナント・フォン・プロイセン(Ferdinand von Preusen, 1730年5月23日 - 1813年5月2日)は、プロイセン王国の王族・軍人。フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の七男で、フリードリヒ2世の弟。
生涯

フリードリヒ・ヴィルヘルム1世とその妃であったイギリスジョージ1世の王女ゾフィー・ドロテア(1687年 - 1757年)の第14子(末子)として、1730年5月23日ベルリンで生まれた。全名はアウグスト・フェルディナント(August Ferdinand)。

フェルディナントは1755年9月27日、姉ゾフィー・ドロテアとその夫ブランデンブルク=シュヴェート辺境伯フリードリヒ・ヴィルヘルムの間の娘アンナ・エリーザベト・ルイーゼ(1738年 - 1820年)と結婚し、彼女との間に以下の五男二女をもうけた。

フェルディナントは1813年5月2日にベルリンで死去し、当地のベルリン大聖堂に葬られている。
子女

結婚して六年後に第一子フリーデリケが誕生した。そののちフェルディナントは心身を崩し、子供も期待できなくなったが、結婚して十四年が過ぎた頃、妻ルイーゼは立て続けに六人の子供を生んだ。子供達の父親は軍人・地理学者のシュメッタウ伯爵フリードリヒ(1743年 - 1806年)なのではないかと噂になった[1]

フリーデリケ・エリーザベト・ドロテア・ヘンリエッテ・アマーリエ(1761年 - 1773年)

フリードリヒ・ハインリヒ・エミール・カール(1769年 - 1773年)

フリーデリケ・ドロテア・ルイーゼ・フィリッピーネ(1770年 - 1836年) - アントニ・ヘンリク・ラジヴィウ公と結婚

ハインリヒ・フリードリヒ・カール・ルートヴィヒ(1771年 - 1790年)

フリードリヒ・ルートヴィヒ・クリスティアン“ルイ・フェルディナント”(1772年 - 1806年)

フリードリヒ・パウル・ハインリヒ・アウグスト(1776年)

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ハインリヒ・アウグスト(1779年 - 1843年)
フェルディナント・フォン・プロイセン
脚注^ Merete van Taack、P134

参考文献

Merete van Taack『Konigin Luise : die unbesiegbare Liebe』1981年
外部リンク

ウィキメディア・コモンズには、フェルディナント・フォン・プロイセンに関するカテゴリがあります。

先代
カール・アルブレヒト聖ヨハネ騎士団
ブランデンブルク大管区長

1762年 - 1811年次代
カール(復興)

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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