フェルディナント・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル
Ferdinand von Braunschweig-Wolfenbuttel
生誕1721年1月12日
ブラウンシュヴァイク=リューネブルク、ブラウンシュヴァイク
死没1792年7月3日
フェッヒェルデ
1740年 - 1766年
オーストリア継承戦争
モルヴィッツの戦い
コトゥズィッツの戦い
ゾーアの戦い
七年戦争
ロボズィッツの戦い
プラハの戦い
ロスバッハの戦い
ラインベルクの戦い
クレーフェルトの戦い
ミンデンの戦い
ヴァールブルクの戦い
クローステル・カンペンの戦い
フィリングハウゼンの戦い
ヴィルヘルムスタールの戦い
第二次ルッターベルクの戦い
第二次カッセル包囲戦
最終階級元帥
テンプレートを表示
フェルディナント・フォン・ブラウンシュヴァイク。連隊長を務めたプロイセン軍フュズィリーア連隊の士官用の制服を纏い、黒鷲勲章の星章と聖ヨハネ勲章の大十字章をあしらう綬を身に着けた姿で描かれている。アントワーヌ・ペーヌの油彩画。1741年頃の作品。『ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公フェルディナントの歴史』所収の1762年戦役の概略図。クレーフェルトの戦いにおけるブラウンシュヴァイク公フェルディナント。エミール・ヒュンテンの絵画。
フェルディナント・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル(ドイツ語: Ferdinand von Braunschweig-Wolfenbuttel、1721年1月12日、ブラウンシュヴァイク - 1792年7月3日、フェッヒェルデ(ドイツ語版)[1][2])は、ブラウンシュヴァイク=ベーヴェルン家の公子である。1735年以降はブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯領の侯子となった。彼はブラウンシュヴァイク=リューネブルク公の一人であり、そのように名乗っている。また元帥としてプロイセン、ハノーファー選帝侯領とイギリスに仕えた。 フェルディナントはベーヴェルン公フェルディナント・アルブレヒト2世の四男として生まれた。1740年に大佐に就任すると、部分的にブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯領の「ゾンマーラッテ」連隊の部隊から構成されていたフュズィリーア連隊(後の第39フュズィリーア連隊
生涯
第二次シュレーズィエン戦争が勃発すると、指揮下の連隊とともにアンハルト=デッサウ侯レオポルト1世に従い、ボヘミアへ赴いた。同地から戻ると近衛連隊(ドイツ語版)(後の第15歩兵連隊)第1大隊の指揮官に就任し、1745年には国王の軍とともにシュレーズィエンへ向かう。6月4日のホーエンフリートベルクの戦いでは旅団を率いてトーマスヴァルデ村を占領し、9月30日のゾーアの戦いでは負傷しながらも敵軍に占領された高地を攻略している。弟のアルブレヒト(ドイツ語版)はこの時、戦死した[4]。
フェルディナントを格別に寵愛したフリードリヒ2世は、彼をポツダムの駐屯地に転任させ、査察旅行に伴った。1750年には中将に昇進し、ラウズィッツのパイツ要塞(ドイツ語版)総督に任じられると1755年、同職に就いたままマクデブルクに配され、ボーニン歩兵連隊(ドイツ語版)(1806年に「第5歩兵連隊」と改称)の連隊長となる。
1756年8月、七年戦争が勃発すると3個の軍団に分かれてザクセンへ進攻するプロイセン軍の一つを率いてライプツィヒを占領し、9月13日にはボヘミアへ出発して10月1日にロボズィッツの戦いに参加し、そこで右翼集団の指揮を執った。1757年4月のボヘミア進攻に際しては前衛部隊を率いて5月6日のプラハの戦いにおける勝利に大いに貢献し、後にアンハルト=デッサウ侯子モーリッツに代わってプラハの攻囲戦を指揮している。ロスバッハの戦いで右翼集団を率いた後、11月にクローステル・ツェーフェン協定が無効になるとイギリス国王ジョージ2世の依頼を受けてプロイセン軍を離れた。そして歩兵大将に昇進し、ドイツ西方における連合軍の上級指揮権を託される。彼はそれまでの経緯から沈み込んでいた兵の士気を、遥かに優勢であったフランス軍にほぼ常に勝利することで向上させた。