フェルディナント・シェルナー
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フェルディナント・シェルナー
Ferdinand Schorner
アテネのアクロポリスに立つシェルナー(1941年)
渾名ヒトラーの最も冷酷な元帥
生誕1892年6月12日
ドイツ帝国
バイエルン王国 ミュンヘン
死没 (1973-07-02) 1973年7月2日(81歳没)
西ドイツ
バイエルン州 ミュンヘン
所属組織 ドイツ帝国陸軍
ヴァイマル共和国陸軍
ドイツ陸軍
軍歴1914年 - 1945年
最終階級 陸軍元帥
除隊後戦争犯罪人
墓所ミッテンヴァルト
署名
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フェルディナント・シェルナーFerdinand Schorner
所属政党 国家社会主義ドイツ労働者党 (1943年入党)
ドイツ陸軍
第4代 陸軍総司令官
内閣ゲッベルス内閣
フォン・クロージク内閣
在任期間1945年4月30日 - 1945年5月8日
大統領カール・デーニッツ
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フェルディナント・シェルナー(: Ferdinand Schorner、1892年6月12日 - 1973年7月2日)は、ドイツ陸軍軍人。最終階級は陸軍元帥。「ヒトラーのもっとも冷酷な元帥」と評されている。ヒトラーが自殺した後は、第4代陸軍総司令官を務める。
経歴
初期の軍歴

バイエルン王国ミュンヘン生まれ。アビトゥーア合格後一年志願兵を経て、ローザンヌ大学やグルノーブル大学で哲学言語学を学ぶ。1914年に第一次世界大戦が勃発すると、軍に志願して下士官・士官候補生となり、予備役少尉に任官する。フランスチロルセルビアルーマニア北イタリアを転戦し、1917年にバイエルン出身の陸軍少尉として唯一のプール・ル・メリット勲章受章者となった。この大戦でシェルナーは三度重傷を負った。終戦前の1918年に職業軍人への道を選び、中尉に昇進。

終戦直後は義勇軍に参加。1920年に軍に復帰する。戦間期はイタリア語に堪能なために参謀本部の外国軍課(南東ヨーロッパ方面)に勤務、またドレスデン歩兵学校の教官を務める。ナチスによる1923年のミュンヘン一揆の際は、軍管区司令官の副官としてこれを鎮圧する側に回ったが、後にナチス親衛隊の準軍隊組織である親衛隊特務部隊を、パレードだけのアスファルト兵士からドイツ陸軍と共に最前線で戦闘できる野戦軍(武装親衛隊)に育成するのに大きな役割を担った。
第二次世界大戦オットー・ヴェーラー大将と戦況を協議するシェルナー(1944年4月、ルーマニア)

第二次世界大戦では、まずポーランド侵攻で第98山岳連隊を指揮し大きな成功をおさめる。新設の第6山岳師団師団長としてフランス侵攻作戦に参加し、フランス降伏後の1940年8月に少将に昇進。バルカン戦線 (第二次世界大戦)では同師団を指揮し、先遣隊がアテネのアクロポリスハーケンクロイツ旗を掲げる功績を上げて騎士鉄十字章を受け、その後同師団を率いてバルバロッサ作戦に参加する。1942年にはフィンランドの第19山岳兵軍団の軍団長に昇格。

この後、1943年11月より翌年1月まで第40装甲軍団の指揮をとる。1944年2月には新設されたナチス独自の参謀本部部長に任命され、柏葉付騎士鉄十字章を受章したが、マルティン・ボルマンと対立して一月で辞任した。3月にA軍集団司令官(同軍集団はすぐに南ウクライナ軍集団と改称される)となる。クリミア半島が占領されてもセヴァストポリ軍港は保持できるとしていたが、後にその考えを変え、ヒトラーに同地からの撤退を説得する。しかしこの決断は遅きに失し、クリミア半島守備のドイツ第17軍とルーマニア軍は大損害を受けた。1944年の晩春にはルーマニアドニエストル川流域南部でのいくつかの防衛戦で戦果を収めた。A軍集団司令官時には、脱走兵を即時処刑していた[1]。戦後、シェルナーは、脱走兵処刑は、戦線の維持のためと、そして戦線を維持することによってソ連軍からの侵攻から数十万の民間人の救出のため必要な措置であったと正当化した[1]

1944年8月には上級大将に昇進する。同年7月23日には北方軍集団司令官となる[2]。1945年1月には中央軍集団司令官となり、チェコスロバキアからオーデル川上流部分にかけての防衛を担当した。この職責において、シェルナーは迫り来るソ連軍を避けるため、ズデーテン地方やシレジア地方からのドイツ人住民160万人の西方への疎開を支援したが、同時に兵士や国民突撃兵を自殺的な戦闘に送り込んだ。

「総統にラウバン訪問の報告をした。総統もシェルナーが我が軍の最も優れた司令官だという考えである。・・・シェルナーは戦線を安定させることに成功した。当地の部隊の士気が回復したのも、シェルナーの功績に帰される。シェルナーがその目的のために用いた激しい方法について、総統に報告した。彼は敵前逃亡兵に容赦がなかった。逃亡兵は木に吊るされ、その首には『私は逃亡兵です。私はドイツの婦女子を守ることから逃げ出しました。そのため吊るされたのです』と書かれた木札がかけられていた。この方法に効果があるのは当然のことである。シェルナー指揮下の兵士たちは、前に進めば死ぬかもしれないのに対し、後ろに進めば必ず死ぬということをよく知っていた」 ? ヨーゼフ・ゲッベルスの日記、1945年3月12日

シェルナーは主に東部戦線で作戦指揮し、ヴァルター・モーデル元帥らと共に大戦後半の困難な防衛作戦の指揮官として、ヒトラーのもっともお気に入りの将軍の一人であった。1945年4月5日に陸軍元帥に昇進、同4月30日には自殺したヒトラーの遺言によって陸軍総司令官に任命された[3]


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