フェリー
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「フェリー」のその他の用法については「フェリー (曖昧さ回避)」をご覧ください。

フェリー(英語: ferry)とは、川や浅い海を渡って、定期的に人や貨物や乗り物を運ぶ船舶[1][2]公共交通に区分され、多くの停留所があるフェリーは水上バスとも呼ばれる。
分類
旅客専用フェリー

フェリーのうち人だけを運ぶもの。
カーフェリー(ROPAX)オウルフィンランドハイルオト島間のカーフェリー接続

フェリーのうち自動車も運ぶものを「カーフェリー」や「ROPAX」と呼ぶ。

なお、アメリカ英語カナダ英語ではen:car ferryと言うと、トレイン・フェリー(鉄道車両を運ぶフェリー)を意味する(北米ではこの単語の組み合わせでは習慣的にcarが鉄道車両を表す)。一方、イギリス英語ではen:Roll-on/roll-off(ROPAX)を意味し、英語圏内でもまぎらわしいため、最初からROPAXと呼ぶことで混同を避ける用法も行われている。

なお日本の雑学シリーズ本やテレビでは、

英語の「car」は狭義には乗用車の意味で、トラックやトレーラーは含まれないので多様な車両すべてを運ぶ船を近年では ROPAX(roll on/roll off passenger)vessel や Ro-Pax Ferry と呼ぶ場合がある、

日本で「ローパックス・フェリー」という表現が定着するかは不明[3][注釈 1]

実は英語でフェリーとは渡し船も意味し、カーフェリーに限定しない。

などと解説している。

なお「自動車運搬船」(貨物船の一種で自動車の海上輸送に用いられる)とは分類上異なる。
旅客・自動車フェリー

旅客船貨物船の2つの機能が求められるため、建造と運航がコスト高となる。

旅客船:必要な安全設備と客室設備や快適性のための減揺装置や高速航行性を備える。

貨物船:多数の雑多な自動車を短時間のうちに安全に個人運転者の操縦によって自走乗船・自走下船させ固縛し、運搬する設備や能力が必要となる。

トレイン・フェリー(貨物車両渡船、鉄道連絡船)トレインフェリーの内部。レールが敷かれている。

フェリーのうち、鉄道車両を乗せて運ぶもの。日本語では「鉄道連絡船」などの訳語を使っている。詳細は「鉄道連絡船」を参照

長距離フェリー
日本長距離フェリー協会[4]による定義では、片道300km以上の航路に就航しているフェリーであり、陸上輸送の代替として物流の効率化に貢献している。
国際フェリー
国際航路に就航しているフェリーであり、安全基準などは海洋関係の国際条約SOLASなど)により規定されている。
歴史

1871年、Suhuletという船名(Suhuletは「便利」という意味)のフェリー船がトルコ、イスタンブールで建造された(この船が世界初のフェリーともされる)。鉄製の蒸気船で?irket-iHayriye社(Bosporus Steam Navigation Company)のゼネラルマネージャーであるGiritliHuseyinHakiBeyによって設計され、イギリスの造船業者によって建造された。 157トン、長さ155フィート(45.7m)、幅27フィート(8.5m)、喫水9フィート(3m)、450馬力単気筒2サイクル蒸気エンジン外輪を回して最大6ノットで航行できる船で、船舶としてユニークな点としては、馬車のための対称的な出入り口とハッチウェイのデュアルシステムが備わっていた点が挙げられる。1872年就航。ユスキュダル(イスタンブールに隣接する一地区)と カバタシュ(イスタンブール内の地区)を結ぶ航路で運航された(同航路では現在でも近代的なフェリーが運航している)。
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出典検索?: "フェリー" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2012年3月)

渡し舟と初期のフェリーの違いは判然としないため、いつの時点から日本での最初のフェリーと呼んで良いかは断言できないが、1つの例として示せば、1934年に今の北九州市若松区戸畑区の間の400m程を結ぶ航路に43総トンの2隻のカーフェリー「第8若戸丸」と「第9若戸丸」が就航した事例が挙げられる[5]。これらのフェリーは船の前後に舵とスクリューを備えた両頭船であり、最大でもトラック2台とオート三輪を4台を積載できるのみであった。

1944年には現在の桜島フェリーの前身となる鹿児島港桜島港との間を結ぶ156総トンの木造船、「第一桜島丸」が就航した。

第二次世界大戦後の1950年下関門司の間3.8kmを結んだ「第三関門丸」「第四関門丸」第五関門丸」の3隻が就役した。また、瀬戸内海では1953年宇野岡山県)と高松香川県)間を結ぶ「第一航走丸」150総トンが、1954年明石海峡横断航路として明石 - 岩屋(兵庫県)間を結ぶ「あさぎり丸」220総トンが、同年に鳴門海峡航路として福良(兵庫県) - 鳴門(徳島県)間を結ぶ「若潮丸」220総トンがそれぞれ就航した。

1960年代後半には、自動車貨物輸送の拡大とモータリゼーションの本格化に伴い、関西と四国、九州の瀬戸内海沿岸各地を結ぶ航路をはじめ、日本全国に長距離フェリー航路が多数開設された[5]1968年には阪九フェリーのフェリー阪九が神戸 - 小倉航路に就航した。これは、日本国内で初めての片道300kmを越える長距離フェリーであった[6]。フェリー航路は1973年には168航路、1980年には241航路にまで増加した。

1973年からの第一次オイルショック1979年からの第二次オイルショックの影響で、国内観光の需要が激減して輸送量が減少するともに、燃料油の価格が高騰。さらに瀬戸内海航路では1975年の山陽新幹線博多延伸開業による旅客の減少もそれに追い打ちをかけた。運航会社の経営を圧迫し統合や廃業が相次ぐとともに、多くの航路が閉鎖された[5]。また、1988年から1999年にかけての本州四国連絡橋の完成によって、それまで四国本州を結んでいた多くの航路が、減便や役割を終えて閉鎖された。


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