フェリペ・マッサ
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フェリペ・マッサ

ブラジル政府との行事にて(2018年)
基本情報
略称表記MAS
国籍 ブラジル
出身地同・サンパウロ
生年月日 (1981-04-25) 1981年4月25日(43歳)
F1での経歴
活動時期2002, 2004-2017
所属チーム'02, '04-'05 ザウバー
'06-'13 フェラーリ
'14-'17 ウィリアムズ
車番19
出走回数272 (269スタート)
タイトル0
優勝回数11
表彰台(3位以内)回数41
通算獲得ポイント1,167
ポールポジション16
ファステストラップ15
初戦2002年オーストラリアGP
初勝利2006年トルコGP
最終勝利2008年ブラジルGP
最終戦2017年アブダビGP
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フェリペ・マッサ(Felipe Massa, 1981年4月25日 - )は、ブラジル出身のレーシングドライバー

F1にてザウバーフェラーリウィリアムズで活躍。通算11勝を記録した。近年は、FIA委員会の役員も務めている。
初期の経歴

祖父はイタリアフォッジャ県チェリニョーラからの移民で、イタリア移民としては比較的最近の世代の家系に生まれた。

8歳でカートレーシングを始め、国内外の選手権で9年間活動した。

1998年にジュニアフォーミュラにステップアップし、フォーミュラ・シボレーのブラジル選手権に参戦。初年度にランキング5位を獲得し、翌年には10戦中3勝を挙げ選手権タイトルを獲得した。

2000年にはヨーロッパへ渡り、フォーミュラ・ルノーのイタリア選手権とユーロカップに参戦し、両選手権ともにタイトルを獲得した。

2001年にはF3へステップアップする機会を得たが、イタリアを中心に開催されているユーロF3000(現・ユーロ3000選手権)への参戦を選び、参戦初年度にもかかわらず8戦中6勝を挙げるという圧倒的成績でタイトルを獲得した。

この活躍に注目したザウバーからF1テストの機会を与えられ、テストの結果ザウバーとの契約を勝ち取り、翌年からF1参戦を果たす。
F1の経歴(2002年 - 2017年)
ザウバー時代
2002年・2003年ザウバー時代

2002年マクラーレンへ移籍したキミ・ライコネンの後任として、20歳312日という若さでF1デビューを飾った。デビュー2戦目のマレーシアGPで6位入賞し初のポイントを獲得するも、この頃にはミスも多く、第11戦フランスGPではピットレーン出口の白線を2回跨いだことでそれぞれドライブスルーペナルティの処分が与えられた。また、第15戦イタリアGPではジャガーペドロ・デ・ラ・ロサとの接触で翌戦の10グリッド降格ペナルティを言い渡されたため、ペナルティの回避目的で翌戦のアメリカGPのシートをハインツ=ハラルド・フレンツェンに譲った。最終的に入賞は3回、ランキング13位でシーズンを終える。

シーズン終盤には、ザウバーが2003年にチームメイトのニック・ハイドフェルドを継続、代役として出場したフレンツェンの2名を登用することを決定し、マッサはシートを失った。それに伴いフェラーリに移籍し、2003年シーズン中はテストドライバーを務めた。
2004年

2004年、フェラーリからの推薦によりザウバーからF1復帰を果たす。この年はチームメイトのジャンカルロ・フィジケラにレースペースで遅れをとることが多かったが、第14戦ベルギーGPでは最高位の4位を記録。第16戦中国GP最終戦ブラジルGPでも、4番グリッドを獲得するなどの活躍を見せた。最終的にシーズンで12ポイントを挙げたが、22ポイントを獲得したフィジケラと比べると見劣りする結果となった。
2005年2005年イギリスGP

2005年、チームメイトは1997年のワールドチャンピオンジャック・ヴィルヌーヴ。この年は安定感のある走りを披露し、多くのレースでヴィルヌーヴを上回るパフォーマンスを見せたものの、最終的に前年より獲得ポイントを下げた。

2006年に向けてフェラーリとレースドライバー契約を結び、ミハエル・シューマッハのチームメイトとなることが決まる。
フェラーリ時代
2006年フェラーリに移籍

2006年フェラーリに移籍。開幕戦バーレーンGPでは予選で2位を獲得した。第2戦マレーシアGPでは21番手スタートから5位入賞。14番手スタートから6位を獲得したシューマッハを上回った。しかし序盤は安定性に欠け、バーレーンではレース中にスピン。オーストラリア、モナコでは予選中にクラッシュとチームメイトに比べると見劣りする場面が多々あった。

第5戦ヨーロッパGPでは3位でゴールし、初の表彰台を獲得した。第14戦トルコGPにて参戦4年目にして初ポールポジション(PP)を獲得。決勝レースでも安定した走りを披露し、初優勝をポールトゥウィンで飾った。第17戦日本GPでは、2度目のPPを獲得したものの、レースでは2位に終わった。続く最終戦ブラジルGPでは、2戦連続のPP獲得から、自身2度目の優勝を母国で果たし、チームメイトのシューマッハの引退レースに花を添えた。また、この勝利は1993年のアイルトン・セナ以来、13年ぶりのブラジル人による母国優勝でもあった。そのウィニングランではコースマーシャルから渡されたブラジル国旗を掲げて走る姿を披露した。
2007年2007年バーレーンGP優勝

2007年、引退したシューマッハに代わってキミ・ライコネンをチームメイトに迎える。第3戦バーレーンGP第4戦スペインGPと連勝し、チャンピオン争いに加わる。この2つのグランプリでは、2戦連続ハットトリックを記録している[1]。しかし、その後は第6戦カナダGPでピットレーン出口の赤信号を見落とすミスを犯し失格処分になる等、第12戦トルコGPまで優勝から遠ざかり、チャンピオン争いから脱落してライコネンのサポートにまわった。

この年は6回のPP、3回の優勝を含む10回の表彰台、6回のファステストラップ(FL)を記録し、中盤までタイトル争いに絡む等、大きな成長を見せた。最終戦を前に2010年末までのフェラーリとの契約延長を発表している。最終戦ブラジルGPではPPからスタートし、50周目まで守った首位のポジションをライコネンに明け渡し、2年連続の母国優勝を諦める形でチームメイトのドライバーズタイトル獲得を見事にサポートした。
2008年2008年カナダGP

2008年、この年は大いに活躍することとなるが、好調なマシンとは裏腹に良いスタートが切れなかった。開幕戦オーストラリアGPでは、オープニングラップ第1コーナーでスピンを喫し、最終的にエンジントラブルでリタイア。第2戦マレーシアGPではPPを獲得するものの、決勝レースでは開幕戦に続いてスピンを喫し、2戦連続のリタイアとなった。第3戦バーレーンGPでシーズン最初の優勝をあげると、その後は順調にポイントを獲得していく。

そして2006年、2007年と連覇している第5戦トルコGPではポールトゥウィンで完勝し、3年連続ポールトゥウィンを達成した。第8戦フランスGPでは、首位ライコネンがトラブルで失速したレースをものにしシーズン3勝目を上げた。しかし、続く第9戦イギリスGPでは、雨に苦戦し何度もスピンを喫してしまい、リタイアは回避したものの13位に沈んだ。第11戦ハンガリーGPでは、予選3番手から抜群のスタートで1コーナーまでに首位を奪取。その後も徐々に差を広げ2番手走行中のルイス・ハミルトンがパンクで後退してからは、20秒以上の大差をつけて首位を独走する。シーズン4勝目を目前にした残り3周、突然のエンジンブローによりマシンを降りた(記録上は17位完走)。

第12戦ヨーロッパGPではPPを獲得。決勝でも見事なスタートを決め首位を堅持すると、そのまま独走態勢に入りシーズン4勝目をあげた。FLも記録しており、自身100戦目をハットトリックという完勝劇で飾った。同レースをリタイアに終わったライコネンをランキングで抜いて2位に浮上した。また、2度目のピットアウトの際エイドリアン・スーティルと接触寸前になり、レース後の審議で罰金のペナルティを科されたが、順位の変更はなかった。マッサの言い分は「ラップリーダーの人間に進路を譲るもの」である。第13戦ベルギーGPでは2位でレースを終えたが、首位でチェッカーを受けたハミルトンが「ショートカットによるアドバンテージを利用しての追い越し」によりペナルティを受け、マッサが優勝に繰上がり2連勝でシーズン5勝目をあげた。1ポイント差でチャンピオンシップを逃す(2008年ブラジルGP

第15戦シンガポールGPではPPを獲得。決勝レースでも首位を快走していたが、セーフティカー導入直後のピットストップで状況が変わる。フェラーリがロリポップの代わりに用いていたシグナルが、ピットクルーのミスにより給油中にグリーンに替わり、それに反応したマッサは給油ホースを引きちぎって発車。ピットレーン脇にマシンを止め、慌ててクルーが駆け寄りホースを引き抜く事態となった。これにより一気に最後尾に転落した上、ピットアウトの際に再びスーティルに接触寸前になるほど強引に飛び出したことで、ドライブスルーペナルティを受けた。その後はコースアウトやハーフスピンを喫するなど安定感を欠き、13位ノーポイントに終わった。タイトル争いでは、首位ハミルトンとのポイント差を7に広げられてしまった。

だが、第16戦日本GPでは7位、第17戦中国GPでは2位表彰台を獲得し、ワールドチャンピオン獲得の可能性を残して母国での最終戦ブラジルGPに挑んだ。PPを獲得し、そのままハットトリックで完全優勝。同シーズン最多となる6勝目をマークした。チャンピオンを争うハミルトンは終盤に降り出した雨の影響で6位に落ちており、マッサがチェッカーを受けた時点ではマッサがチャンピオンを獲得する条件は揃っていた。しかし強まる雨の中、ドライタイヤで走行を続けていたティモ・グロックが失速し、ハミルトンは最終ラップの最終コーナーでこれをオーバーテイクし、5位でゴールした。これによりマッサは僅か1ポイント差でタイトルを逃した。
2009年

更なる飛躍が期待された2009年だったが、大幅なレギュレーション変更に合わせて開発されたF60に昨年ほどの競争力はなく、開幕から4戦をノーポイントで終えた。しかしその後の4戦では連続してポイントを獲得し、第9戦ドイツGPではこの年初の3位表彰台を獲得する等の健闘を見せた。

第10戦ハンガリーGPでは、予選中に前方を走行するルーベンス・バリチェロのマシンからサードダンパーのスプリングが外れ、マッサの左前輪で跳ね上げられヘルメットを直撃し、その衝撃で意識を失い、アクセルを緩めることなく高速のままタイヤバリアに激突するクラッシュを喫した。診断の結果、額の裂傷、頭蓋骨の損傷、脳震盪などにより緊急手術が行われた。翌日の決勝レースは欠場となった。低速サーキットと言われるハンガロリンクであるが、アップヒルストレートからハンガロリンク最大の高速コーナーである4コーナーのアプローチという、時速280kmほどになる場所でスプリングが頭に当たるという不運な事故であった。この事故がきっかけでドライバーの頭部保護デバイスの開発が検討されるようになり、やがてそれは2018年に「Halo(ヘイロー)」としてレギュレーションで正式導入されることになる。

その後は順調に回復し、本人は母国でのブラジルGPで復帰したい旨を話していた。8月末に行われた精密検査では認識力・視力ともに良好ではあったものの、骨折した頭蓋骨の形成手術の必要があること、その後トレーニングの必要があることなどを考慮し、チーム側はシーズン中の復帰はさせないつもりであることを発表した。

代役は当初はミハエル・シューマッハが復帰する予定であったが、バイクレースでの事故による首の痛みにより断念。第11戦ヨーロッパGP第12戦ベルギーGPではフェラーリのテストドライバーであるルカ・バドエルが務めた。しかしバドエルの成績不振により第13戦イタリアGP以降はジャンカルロ・フィジケラが急遽フォース・インディアから移籍して代役を務めた。

その後も順調に回復し、10月にはフィオラノサーキットにおいて事故後初となるF1ドライブを実施し、F2007GP2仕様のスリックタイヤを装着して100kmを走破した。


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