フェリペ・ゴンサレス
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の)はゴンサレス、第二姓(母方の)はマルケスです。

スペイン政治家フェリペ・ゴンサレス・マルケスFelipe Gonzalez Marquez
1991年撮影
生年月日 (1942-03-05) 1942年3月5日(82歳)
出生地 スペイン セビリア
出身校セビリア大学
所属政党スペイン社会労働党
配偶者マリア・デル・カルメン・フリア・ロメロ・イ・ロペス
首相
在任期間1982年12月1日 - 1996年5月4日
国王フアン・カルロス1世
テンプレートを表示

フェリペ・ゴンサレス・マルケス(Felipe Gonzalez Marquez IPA[fe?lipe gon?θaleθ]、1942年3月5日 - )は、スペインの政治家。1974年から1997年までスペイン社会労働党 (PSOE) の書記長。1982年から1996年まで4期連続で首相を務め、この任期は在任期間最長記録となっている。家族に妻と3人の子どもがいる。
若年期

フェリペ・ゴンサレスはセビリアで酪農を営む家の息子として生まれる。その後セビリア大学法学を専攻し、労働関係を専門とする弁護士として活動する。大学在学時、ゴンサレスは当時秘密組織として活動していた労働者団体 UGT (Union General de Trabajadores) の構成員に出会う。また社会労働党員とも接触するようになり、ゴンサレス自身も社会労働党の秘密活動に参加していくようになった。ゴンサレスは「イシドロ」(Isidoro) という偽名を使い、マドリードに拠点を移した。ゴンサレスはフランスのシュレーヌでの党大会で書記長に選出される。フランシスコ・フランコが死亡すると、ゴンサレスは独裁体制の残存勢力に対する反対運動を率い、また当時首相を務めていたアドルフォ・スアレスとともに民主化の中心として活躍する。フランコの死後、初となる民主的な総選挙が1977年に行なわれ、社会労働党は得票数で第2党となり、この結果を受けてゴンサレスは若く、将来が有望視される指導者として頭角を現すようになった。1979年の選挙では勝利を収めることができなかったが、1982年の総選挙で民主中道連合が大敗・崩壊し、これを受けて社会労働党とゴンサレスは政治の中心に立つこととなった。
首相在任期

1982年10月28日に行なわれた総選挙で、社会労働党は48.3%の票を集め、350議席中202議席を獲得した。同年12月2日、ゴンサレスは首相に就任し、副首相にはアルフォンソ・ゲーラをあてた。ゴンサレスの首相就任に対してスペイン国民は変革への大きな期待を寄せていた。ゴンサレス政権下において教育が広められ、16歳までの教育費を無料とした。また大学教育も整備されたほか、社会保障制度が導入され、またカトリック教会からの反発を受けたものの、人工妊娠中絶の一部合法化を実現した。ゴンサレスは自由主義改革を推進し、経済の建て直しを図った。

1983年2月23日、政府は破綻の危機に瀕していた民間銀行を傘下に持つルマサを、預金者と60,000人の従業員の雇用を守るために国有化する法律を提出、可決された。この方針に対しては激しい批判と司法での対立が起こったが、最高裁判所は1986年12月に政府を支持する判決を下している。

1982年の総選挙で社会労働党は鉄鋼業の再構築を進めて80万人の雇用を創出すると公約していたが、実際には一時解雇が進められることになった。また1984年に港湾業の不振問題に取り組んでも、港湾労働者によるストライキを招く結果となった。1985年6月20日、UGT は社会保障改革に反発してゼネラル・ストライキの実施を呼びかけた。同年、ゴンサレス政権は200ほどある国有企業とその国有企業に依存する多くの企業を部分的、あるいは完全に民営化していった。

1986年6月22日の総選挙で社会労働党は44.1%を得票し、184議席を獲得した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:32 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef