フェラーリ
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この項目では、自動車メーカーのフェラーリについて説明しています。

F1チームでモータースポーツ部門については「スクーデリア・フェラーリ」をご覧ください。

その他の用法については「フェラーリ (曖昧さ回避)」をご覧ください。

フェラーリ
Ferrari N.V.
マラネッロにある本社正門
種類株式会社
市場情報NYSE RACEイタリア証券取引所: RACE
本社所在地 イタリア


オランダ北ホラント州アムステルダム(登記上の本籍地)

イタリアエミリア=ロマーニャ州マラネッロ(実質的な本社機能)

設立1947年
業種自動車製造
事業内容自動車の製造および販売
代表者

ジョン・エルカーン(会長)

ベネデット・ヴィーニャ(CEO

ピエロ・フェラーリ(副会長)

売上高28億5400万ユーロ(2015年)
純利益2億9000万ユーロ(2015年)[1]
従業員数2,850人(2014年)
主要株主

エクソール(23.5%)

ピエロ・ラルディ・フェラーリ(10%)

一般株主(66.5%、議決権無し)

(2016年1月3日時点)[2]

主要子会社

フェラーリ・ファイナンス

フェラーリ・ジャパン

フェラーリ・ノースアメリカなど

関係する人物

エンツォ・フェラーリ(創業者)

ルカ・ディ・モンテゼーモロ(元会長)

エンリコ・ガリエラ(シニア・バイスプレジデント)

ジャンニ・アニェッリフィアットグループ会長)

フレデリック・バスールスクーデリア・フェラーリ代表)

外部リンク公式ウェブサイト
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フェラーリ (Ferrari N.V. ) は、イタリアエミリア=ロマーニャ州モデナ県マラネッロに本社を置く自動車メーカー
概要エンツォ・フェラーリ

イタリアの元レーシングドライバー兼レーシングチームオーナーのエンツォ・フェラーリによって、イタリア北部のモデナ近郊に1947年に設立されて以来、主にレーシングカーと高性能スポーツカーのみを製造している自動車メーカー[3]である。

F1世界選手権やFIA 世界耐久選手権等に参戦するモータースポーツコンストラクターとして長い歴史を有しており、F1選手権で唯一1950年の開幕より参戦を続けている。なお、現在フェラーリ社内で市販車部門とレーシングカー部門は別部門とされているが、両部門はマーケティングや人的交流などで密接に繋がっている。

レーシングカーと高級スポーツカーのみを少量生産するという創業当時からの一貫した哲学に加え、ピニンファリーナやスカリエッティ(英語版)などのカロッツェリアとともに創り上げてきたエンジンルームにまで及ぶ美しいデザイン、さらにはF1をはじめ、FIA世界耐久選手権やル・マン24時間レースミッレミリアタルガ・フローリオなど数々のレースで活躍し、幾多の伝説を残していることから、イタリアのみならず世界的にも極めて高い人気とブランドイメージを持つ。

設立以来独立した運営を続けていたが、1969年アニェッリ家率いるフィアット・グループの事実上の傘下に入り、1988年のエンツォの死により大規模な株式の移動があり、さらに2016年にはフィアット・クライスラー・オートモービルズ(FCA)から離脱独立した[4]。しかし、その後もFCAの大株主のアニェッリ家と、その持ち株会社のエクソールが経営に影響力を持ち続けており、FCAの影響を大きく受ける子会社的存在である。
前史
ソチェタ・アノーニマ・スクーデリア・フェラーリ設立
スクーデリア・フェラーリのアルファロメオとベニート・ムッソリーニ(車内)、エンツォ(左から2番目)、タツィオ・ヌヴォラーリ(右から3番目)、ルドルフ・カラツィオラらと

1929年12月に、アルファロメオのレーシングドライバー[5]で、その後アルファロメオのディーラー「カロッツェリア・エミリア・エンツォ・フェラーリ」の経営をしていたエンツォ・フェラーリがレース仲間と共に「ソチェタ・アノーニマ・スクーデリア・フェラーリ (Societa Anonima Scuderia Ferrari)」」を創設した。当初は裕福なモータースポーツ愛好家をサポートする、アルファロメオディーラーチームであり、4輪の他にオートバイ部門もあった[6]

1932年に息子のアルフレードが生まれたことで、エンツォはドライバーを引退してチーム運営とアルファロメオの正規代理店に専念し、1933年にアルファロメオがワークス活動を休止するとマシンを借り受け、セミワークスチームとしてイタリア政府のサポートも受け、タツィオ・ヌヴォラーリなどの強力なドライバーを擁して数々の勝利を記した[7]

その後チームは1938年にアルファ・コルセへ吸収合併されるが、翌年エンツォが経営陣と対立し、「フェラーリの名では4年間レース活動を行わない」という誓約を残して退社した[8]
アウト・アヴィオ・コストゥルツィオーニ設立
アウト・アヴィオ・コストゥルツィオーニ 815(1940年)

1940年にエンツォは、アルファロメオとの誓約項目を避けるために、退職金で「アウト・アヴィオ・コストゥルツィオーニ(Auto Avio Costruzioni)」という自動車製造会社をモデナに設立し、最初の自らの手によるモデル「815」を生産し、4月28日から行われたミッレ・ミリアに参戦し好成績を上げた[8]

しかしその直後の6月10日に、イタリアがイギリスフランス宣戦布告し、第二次世界大戦に参戦した[9]。このためイタリアにおけるモータースポーツ活動が全面的に禁止され、「アウト・アヴィオ・コストゥルツィオーニ」も「815」の製造を中止し、兵器製造のための粉砕機などの工作機械製造を行うようになった[8][10]

その後1943年8月にイタリアが連合国に降伏したものの、その直後にイタリア北部はイタリア社会共和国の占領下になったこともあり、モデナが連合国の空襲を受け多くの工場が破壊された[11]上に、自動車製造やモータースポーツ活動は引き続き禁止された。しかしエンツォは、戦後のモータースポーツ解禁に備えて自前の自動車工場をモデナ近郊のマラネッロに移設した。
沿革
フェラーリ設立
125S(1947年)

1945年5月にヨーロッパにおいて第二次世界大戦が終結すると、この後しばらくの間フェラーリのエンジンを設計することになったジョアッキーノ・コロンボらを擁して[12]1946年より自前のレーシングカーを開発するようになった。

なお1945年には、エンツォと愛人のリーナ・ラルディ・デリ・アデラルディとの間に、現在フェラーリの副会長を務めるピエロが生まれた[3]

1947年には晴れて自らの名を冠した「フェラーリ」を設立した。処女作は創業初年度に製造したレーシングスポーツ「125S」であった[13]。「125S」は、フェラーリの手で同年開催されたローマグランプリに参戦し、いきなり優勝をあげることでフェラーリの名を一躍有名にした。なお生産台数は2台のみであった。

また「125S」は、エンツォが懇意にしていたタツィオ・ヌヴォラーリが、フォルリパルマのレースで連勝するなど、フェラーリのみならず、戦後におけるチャンピオンの復活も印象付けることになった[14]
生産開始とF1制覇
166MM(1948年)

その後2台のみ生産された「195」を経て、早くも1948年にトリノ・モーターショーで発表した「166MM」で、1949年の「ミッレミリア」と「ル・マン24時間」の2つの名高いレースを制覇し名声を高めた(しかもこれは同一のシャシー「0008M」を持つ単体であった)。

この「166」シリーズよりレーシングカーを兼ねたGTカーの少数受注生産を開始し[15]、ヴィットリオ(英語版)とジャンニーノ・マルゾット(英語版)伯爵らの4兄弟が率いる「スクーデリア・マルゾット」や、アルフォンソ・デ・ポルターゴ侯爵、ブルーノ・ステルツィ伯爵などのモータースポーツに参戦するイタリアの裕福な貴族などに販売する[16]とともに、ワークスとして「ミッレミリア[17]」や「タルガ・フローリオ」、「ル・マン24時間」や「ツール・ド・フランス」などのヨーロッパの著名なレースに参戦し、その多くで優勝を飾った[13]

さらに1950年には、同年より開始されたフォーミュラ1(F1)世界選手権への参戦を開始し、1951年イギリスグランプリでアルゼンチン人ドライバーのホセ・フロイラン・ゴンザレスが初勝利を挙げた。なおフェラーリは、同選手権が開始されてから現在まで参戦している唯一のレーシングチーム及び自動車メーカーである[18]
キネッティの貢献
212インター(1953年)340MM(1953年)375MM(1953年)

エンツォの友人で、1949年のル・マン24時間とスパ・フランコルシャン24時間をフェラーリ・166MMで勝利(パートナーはイギリスの2代目セルスドン男爵)し、その後アメリカの東海岸で、フェラーリの正規輸入販売代理店を経営することになるルイジ・キネッティ(英語版)[19]の勧めにより、当時の世界最大の自動車市場であるアメリカ向けの「212ヴィニャーレ」(1950年)や「340アメリカ」 (1951年)、「340メキシコ」(1952年)など、次第に車種と販路を拡げていった。

いずれも旧モデルとなったレーシングカーをデチューンして市販車に仕立て上げ、欧米の王侯貴族や大富豪、アメリカの映画スターなどの非常に限られた層を中心に販売していたものであった[20][21]。なお当時のフェラーリは車体(シャシーとエンジン)のみを製作し、またボディはツーリングヴィニャーレ、スカリエッティやピニンファリーナ、ボアノなどのカロッツェリアに委託していた。その後2010年代まで60年以上続くピニンファリーナとの関係は「212インター・カブリオレ」(1952年)より始まる。


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