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出典検索?: "フェドロフM1916"
ロシア帝国 ソビエト連邦
設計・製造ウラジーミル・フョードロフ
仕様
種別自動小銃
口径6.5mm
銃身長520mm
使用弾薬6.5mm×50SR(三十年式実包)
装弾数25発(箱形弾倉)
全長1045mm
重量4400g
発射速度400発/分
歴史
設計年1909年 - 1916年
製造期間1916年 - 1925年
配備期間1919年 - 1939年
配備先ロシア帝国軍・赤軍
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フェドロフM1916(ロシア語: Автомат Фёдорова、「フョードロフ自動銃」)は、ロシア帝国で開発された自動小銃である。
20世紀初頭の水準では弱装である日本の6.5mm×50SR弾(三十年式)を使用することでフルオート射撃時の反動を抑制し、「個々の兵士が携行できる軽量フルオート小銃」という、後のアサルトライフルと同じコンセプトを世界で最初に実用化した製品である。
フェドロフM1916はロシア革命の混乱の中で少数・短期間の配備に止まった過渡期の製品だったが、開発者のウラジーミル・グリゴーリエヴィチ・フョードロフ(後に中将)は赤軍及びソ連軍で採用された各種銃器の開発を牽引して多くの銃器デザイナーを育成し、1943年から始まった小銃弾と拳銃弾の中間の性能をもつ弾薬の開発と、それを用いるRPD軽機関銃やSKSカービン、AK-47などの開発で中心的な役割を果たした。
特徴フェドロフM1916のショートリコイル機構日本軍が作成した「1925年式フエドロフ自動小銃」の構造図。この小銃はM1916の派生型であると考えられる。
フェドロフM1916は当時のライフル銃に比べると短いカービンサイズである。また反動利用の作動機構を採用したため、ガス利用作動方式で必要となるガスピストン等が不要となり、重量は4.4kgと比較的軽量にまとめられている。
M1916として知られるものの、1916年の発表以降、1919年、および1922年から1925年の間に、何度か大幅な再設計が行われている。フェドロフM1916として良く知られるのは、1919年に再設計されたモデルである[1]。
フルオートでのコントロールを容易にするために、弾倉の前部にはフォアグリップが備えられている。
閉鎖方式にはモーゼル式のショートリコイル方式を採用しており、その閉鎖・開放の流れは左図の通りである(詳細は“ショートリコイル”を参照)。
ショートリコイル方式の銃器は射撃時に銃身が前後するため、銃身が固定されたボルトアクション方式と比較すれば命中精度が劣り、小銃に採用される事は稀で、一般には拳銃や短機関銃に採用されることが多い。
スムーズに銃身を前後させるとともに、白兵戦時に銃身を掴まれるなどして作動不良を招かないように、銃身は銃床および放熱筒で覆われており、銃身に過剰な負担をかけないために、銃剣は銃床部放熱筒に固定される構造となっていた。
また、重量の軽減と連射時のバレル冷却の目的からバレル自体にフルート加工(銃身に溝を彫ることで表面積を増やして冷却効果を高める方法)が施され、フォアストック部には放熱性の高いアルミ材と鋼板が使用された。
開発の背景第一次大戦当時のルイス軽機関銃: 最も軽い軽機だったが、重量は12kgもあった。MP18を持った突撃歩兵の兵士
第一次世界大戦では機関銃が戦場を支配する塹壕戦が常態化したが、これはロシア軍にとって日露戦争で経験済みの事態だった。
1905年の黒溝台会戦で、日本陸軍の秋山支隊が用いた「機関銃と塹壕による陣地戦術」[† 1]により大損害を被ったロシア軍は、続く旅順攻囲戦と奉天会戦でも当時画期的であった同戦術を駆使する日本軍に対し有効な攻撃手段を持たなかったため、継戦不能となるほどの損害を被っていた。
セルビア人の汎スラブ主義を煽っていたロシアにとって、これと鋭く対立していたドイツとの衝突が現実となれば、ロシア軍もまた塹壕陣地と対峙して大損害を被る事は明白であり、ロシア軍がドイツ軍に対して有していた大兵力の優位性が封じられてしまう事が予想されたため、ロシアは他の欧州諸国に先んじて塹壕陣地突破の戦術を研究しており、ブルシーロフによる独自の浸透戦術の実践が進められていた。
ブルシーロフの浸透戦術には、敵が構築した塹壕線の脆弱点を衝いて後方に侵入する突撃歩兵(Stostruppen)と呼ばれる特殊な部隊が必要とされていた。突撃歩兵は前線の後方に侵入するために、敵の塹壕線上に存在する脆弱点まで走って肉薄し、後続の部隊とともに後方へ侵入するために敵の機関銃座を無力化する必要があり、このためには濃密な弾幕を形成できる全自動火器を携帯できる事が理想と考えられていた。
しかし、当時の機関銃は陣地に設置することを前提とした巨大かつ重量級の装備であり、開発された当初の軽機関銃も数人がかりで運用される程の代物であり、突撃歩兵のように身軽に動ける事が前提の部隊での運用は困難だった。後にブルシーロフ攻勢で大損害を蒙ったドイツ軍は、浸透戦術を研究して自軍にも突撃歩兵を創設しているが、その装備とされたのは手榴弾とMP18短機関銃だった。
優れた分隊支援火器だったBARは、二度の世界大戦を経て、初期のベトナム戦争まで現役で使用された。
第一次大戦後に普及したトンプソン・サブマシンガン: 1945年 沖縄にて
開発と運用
ロシア帝国時代日本製6.5mm×50SR弾(三八式実包)
1900年に砲兵士官となったフョードロフは、日露戦争で日露ともに多大の戦果を挙げた自動火器の研究に取り組み、1906年に最初の半自動小銃を試作するなど、当時の欧州の水準から見ても先進的な研究を進めていた[2]。元々、フョードロフはモシン・ナガン小銃の半自動化を試みていたが、重量の問題が解決できず、1906年の自動小銃は全く新しい設計によるものだった[3]。
この当時にフョードロフの助手を務めていたのが、後のソ連で銃器デザイナーの重鎮となり、DP28軽機関銃などの設計者として知られるヴァシーリー・デグチャレフである。