フェイマス・スタジオ(1957年まで)
パラマウント・カートゥーン・スタジオ(1957年以降)
現地語社名Famous Studios
Paramount Cartoon Studios
業種映画撮影
フェイマス・スタジオ(Famous Studios)またはパラマウント・カートゥーン・スタジオ(Paramount Cartoon Studios)は1942年から1967年まで存在したパラマウント映画のアニメーション部門のことである。フェイマス・スタジオは1941年にフライシャー・スタジオの経営権をフライシャー兄弟を解雇することでを強引に得たパラマウントがその後継会社として設立されたものである[1]。このスタジオで制作されたシリーズとしてはポパイ、スーパーマン、スクリーン・ソングス(これら3つはフライシャーのシリーズを継承したもの)、リトル・オードリー(Little Audrey)、リトル・ルル、キャスパー、ハニー・ハーフウィッチ(Honey Halfwitch)、ハーマンとカトニップ( Herman and Katnip)、ベビー・ヒューイ(Baby Huey)、ノベルトゥーン(Noveltoon)がある。
Famousという語はパラマウントの前身になったと言われているフェイマス・プレイヤーズ・フィルム・カンパニーから来たものである[1]。なお、フライシャーとフェイマス・スタジオの音楽の権利を保持していたパラマウントの音楽部門はフェイマス・ミュージックと呼ばれ、カナダで展開していたパラマウント系のムービーシアターチェーンの名はフェイマス・プレイヤースだった。
フェイマス・スタジオの制作品の権利の現在の所有者は、AT&T傘下のワーナーメディアやワーナー・ブラザース(ターナーを通じて、ポパイ、スーパーマン)、コムキャスト傘下のNBCユニバーサルやユニバーサル・スタジオ(ドリームワークス・アニメーションを通じて、ポパイを除く1950年10月から1962年3月までの全作品及びフィリックス・ザ・キャット(1958年 - 1962年にテレビ放送されたもの))、パラマウント自身(それ以外の全ての作品)である。
社史
前史「フライシャー・スタジオ」も参照
前身のフライシャー・スタジオはベティ・ブープやポパイのカートゥーンを制作して成功を収めたアニメーション会社である。1938年、フライシャー・スタジオは本社をニューヨークからマイアミビーチに移動した。労働組合の問題が発生していたり、ガリバー旅行記の制作を始めていたりした後のことであった[2]。ガリバー旅行記が成功を収めていた頃、移転にかかる費用やその他の経費がかさみ、フライシャーは財政的に苦しくなった。フライシャーはパラマウントからの前払い金や借金を受けることで、短編映画の制作や、第2の長編映画であるバッタ君町に行くの制作に取りかかっていた[3]。
このスタジオが直面している問題をさらに悪化させたのが、フライシャー兄弟が個人的、職業的問題のために仲違いし、お互いに口をきくことがなくなってしまったことである[4]。1941年5月25日、パラマウントはフライシャー・スタジオの経営権を引き受け、フライシャー兄弟にパラマウントの裁量で使用される署名付きの辞任の手紙を提出させた[3] 。1941年12月に発表されたバッタ君町に行くが失敗に終わった後[3] 、兄のマックスは、もはや弟と協力して作業することができなくなったことを内容とする電報を送った[4]。パラマウントは辞任の手紙を作成することで答え、フライシャー兄弟をスタジオの経営から切り離した[3]。
パラマウントは会社名をフェイマス・スタジオに変更した。経営権は得たものの、フェイマス・スタジオとパラマウントとは別の存在のままだった[3]。3人のフライシャー出身の人物がフェイマス・スタジオの経営に参画する者として昇格していた。経営者がサム・バックヴァルト、絵コンテの作者であるイサドール・スパーバー、アニメーターの長がマックス・フライシャーの義理の息子でシーモア・クナイテルであった[1]。サム・バックヴァルトはエグゼクティブ・プロデューサーとしてマックスの位置を引き受け、スパーバーとクナイテルがデイブが担当していた現場での監督を担当した[3]。