フェイマス・スタジオ
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フェイマス・スタジオ(1957年まで)
パラマウント・カートゥーン・スタジオ(1957年以降)

現地語社名Famous Studios
Paramount Cartoon Studios
業種映画撮影 
その後買収先のガルフ&ウェスタン社により閉鎖
前身フライシャー・スタジオ
後継パラマウント・アニメーション
設立1942年1月25日
創業者サム・バックヴァルト
解散1967年
本社マイアミビーチ (1942?1943), ニューヨーク (1943?1967)
主要人物サム・バックヴァルト
シーモア・ニーテル
イサドア・スパーバー
ダン・ゴードン
ハワード・ポスト
ラルフ・バクシ
製品アニメーション
所有者パラマウント映画
(バイアコムCBS)
従業員数50

フェイマス・スタジオ(Famous Studios)またはパラマウント・カートゥーン・スタジオ(Paramount Cartoon Studios)は1942年から1967年まで存在したパラマウント映画アニメーション部門のことである。フェイマス・スタジオは1941年にフライシャー・スタジオの経営権をフライシャー兄弟を解雇することでを強引に得たパラマウントがその後継会社として設立されたものである[1]。このスタジオで制作されたシリーズとしてはポパイスーパーマン、スクリーン・ソングス(これら3つはフライシャーのシリーズを継承したもの)、リトル・オードリー(Little Audrey)、リトル・ルルキャスパー、ハニー・ハーフウィッチ(Honey Halfwitch)、ハーマンとカトニップ( Herman and Katnip)、ベビー・ヒューイ(Baby Huey)、ノベルトゥーン(Noveltoon)がある。

Famousという語はパラマウントの前身になったと言われているフェイマス・プレイヤーズ・フィルム・カンパニーから来たものである[1]。なお、フライシャーとフェイマス・スタジオの音楽の権利を保持していたパラマウントの音楽部門はフェイマス・ミュージックと呼ばれ、カナダで展開していたパラマウント系のムービーシアターチェーンの名はフェイマス・プレイヤースだった。

フェイマス・スタジオの制作品の権利の現在の所有者は、AT&T傘下のワーナーメディアワーナー・ブラザース(ターナーを通じて、ポパイスーパーマン)、コムキャスト傘下のNBCユニバーサルユニバーサル・スタジオドリームワークス・アニメーションを通じて、ポパイを除く1950年10月から1962年3月までの全作品及びフィリックス・ザ・キャット(1958年 - 1962年にテレビ放送されたもの))、パラマウント自身(それ以外の全ての作品)である。
社史
前史「フライシャー・スタジオ」も参照

前身のフライシャー・スタジオはベティ・ブープポパイのカートゥーンを制作して成功を収めたアニメーション会社である。1938年、フライシャー・スタジオは本社をニューヨークからマイアミビーチに移動した。労働組合の問題が発生していたり、ガリバー旅行記の制作を始めていたりした後のことであった[2]。ガリバー旅行記が成功を収めていた頃、移転にかかる費用やその他の経費がかさみ、フライシャーは財政的に苦しくなった。フライシャーはパラマウントからの前払い金や借金を受けることで、短編映画の制作や、第2の長編映画であるバッタ君町に行くの制作に取りかかっていた[3]

このスタジオが直面している問題をさらに悪化させたのが、フライシャー兄弟が個人的、職業的問題のために仲違いし、お互いに口をきくことがなくなってしまったことである[4]。1941年5月25日、パラマウントはフライシャー・スタジオの経営権を引き受け、フライシャー兄弟にパラマウントの裁量で使用される署名付きの辞任の手紙を提出させた[3] 。1941年12月に発表されたバッタ君町に行くが失敗に終わった後[3] 、兄のマックスは、もはや弟と協力して作業することができなくなったことを内容とする電報を送った[4]。パラマウントは辞任の手紙を作成することで答え、フライシャー兄弟をスタジオの経営から切り離した[3]

パラマウントは会社名をフェイマス・スタジオに変更した。経営権は得たものの、フェイマス・スタジオとパラマウントとは別の存在のままだった[3]。3人のフライシャー出身の人物がフェイマス・スタジオの経営に参画する者として昇格していた。経営者がサム・バックヴァルト、絵コンテの作者であるイサドール・スパーバー、アニメーターの長がマックス・フライシャーの義理の息子でシーモア・クナイテルであった[1]。サム・バックヴァルトはエグゼクティブ・プロデューサーとしてマックスの位置を引き受け、スパーバーとクナイテルがデイブが担当していた現場での監督を担当した[3]。3人目のアニメーション監督であったダン・ゴードンはスタジオがニューヨークに移転した直後に解雇された[4][5]。1941年にフライシャー兄弟はスタジオを去ったが、パラマウントとフライシャーとの契約が正式に満了した後の1942年5月25日に正式にフェイマス・スタジオがパラマウントに合併された[3]
1940年代

パラマウントは買収後すぐに、フェイマス・スタジオの規模を縮小させ、また本社をニューヨークに戻した(1943年初頭に完了)[1]。声優・脚本家のジャック・マーサー、メイ・クエステル、脚本家のカール・マイヤー、アニメーターのマイロン・ウォルドマン、デビッド・テンドラー、トーマス・ジョンソン、ニコラス・タフリ、アル・ユーグスターといったスタッフのほとんどがフライシャー出身の人物だった。これらの人物は、スタジオの歴史の内のほとんど全ての期間所属していた。フライシャーと同じように、アニメーターの長が他のアニメーションスタジオではアニメーション監督が担当している仕事をし、クナイテル、スパーバー、ゴードン、ディズニー出身のビル・ティトラといったクレジットされている監督は現場監督といった状態であった[6]。初期の音楽監督はサミー・ティンバーグであったが、1946年以降はヴァン・ビューレンスタジオ出身のウィンストン・シャープルズが務めた。

この頃は、フライシャーから受け継いだポパイやスーパーマンという漫画の人気キャラクターの作品を制作した。スーパーマンのカートゥーンは制作するのに多額の費用がかかり、さらに出品者と共に目新しさという価値を失ったため、1943年に制作を終了した。それと入れ替わるように、サタデー・イブニング・ポストの漫画キャラクターだったリトル・ルルのシリーズがスタートした。また、ポパイの作品を白黒からカラーにし、一話完結のストーリーであるノベルトゥーンのシリーズ(フライシャーのカラークラシックやワーナーのルーニー・テューンズメリー・メロディーズに近い)がスタートした[7]

ノベルトゥーンはハーマンとカトニップ、ベビー・ヒューイといった人気キャラクターを生み出した。また、キャスパーは作家シーモア・リート、アニメータージョー・オリオロが第二次世界大戦中に子供向けの本の題材として制作され、1945年にフェイマス・スタジオでカートゥーンの制作が始まってから、完全なスタジオの所有物としてはスタジオとしては最も成功した作品になった[6] 。1947年、フェイマス・スタジオはルルの作者であるマージに巨額の著作権料を支払うのをやめ、新たに「いたずら好きな女の子」としてリトル・オードリーが誕生した[7]。同年に、フェイマス・スタジオはボウシング・ボール(英語版)の方式を用い、共に歌う形式だった、フライシャーのスクリーン・ソングを復活させた[6]


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