フェアフィールド郡_(コネチカット州)
[Wikipedia|▼Menu]

コネチカット州フェアフィールド郡
ダリエンのリングスエンド橋
郡のコネチカット州内の位置
州のアメリカ合衆国内の位置
設立1666年
郡名の由来広大な海岸と内陸の湿地
郡庁所在地無し、1960年以降郡政府が無くなった。
過去の郡庁所在地
フェアフィールド(1666年-1853年)
ブリッジポート(1853年-1960年)
最大の都市ブリッジポート
面積
 - 総面積
 - 陸
 - 水
2,168 km2 (836.96 mi2)
1,621 km2 (625.80 mi2)
547 km2 (211.15 mi2), 25.23%
人口
 - (2020年)
 - 密度
956,446人

標準時東部: UTC-5/-4

フェアフィールド郡(: Fairfield County)は、アメリカ合衆国コネチカット州の南西隅に位置するである。ニューヨークに近いため、州内で最も都市化の進んだ郡である。郡内には人口で州内上位10傑に入る都市が4つある。ブリッジポート市(第1位)、スタンフォード市(第2位)、ノーウォーク市(第6位)、ダンベリー市(第7位)である。郡の人口は95万6446人(2020年)[1]で州内最大である。

アメリカ合衆国行政管理予算局がフェアフィールド郡をブリッジポート・スタンフォード・ノーウォーク都市圏に指定している[2]ニューヨーク市への通勤者が多いので、ニューヨーク・ニューアーク・ブリッジポート広域都市圏にも含まれている。

郡内にゴールドコーストと呼ばれる地域があることで、2005年のアメリカ合衆国商務省経済分析局統計では一人当たり年収で国内第6位に入った[3]。コネチカット州は国内でも裕福な方の州である[4]

この裕福な町に加えて低層から中流の労働者階級が住む町もある。裕福な地域よりも人口密度が高く、多様な経済で知られている。

州内の他の7郡と同様にフェアフィールドに郡政府は無く、郡庁所在地も無い。郡は地理的な区域としてのみ参照される。州内では市や町が、消防と救急、教育、雪かきなど地方政府活動の責任がある。隣接する町が特定の資源を共有する場合もある。
歴史

フェアフィールド郡となった地域にヨーロッパ人が訪れる依然、多くの小さなインディアン部族が、互いに関連性を持たずに住んでいた。東からポーガセッツ、タンキテク、シワゴニーなどワッピンガー族に属する部族がいた。フェアフィールド郡地域にはパキオク族やポタタック族もいた。オランダ人探検家アドリアン・ブロックが1614年春から初夏にコネチカット海岸を探検し、オンラストという船を建造した。しかし、地域最初のヨーロッパ人開拓者はイングランドからのピューリタン会衆派教会員だった。コネチカット植民地設立者の一人ロジャー・ラドロー(1590年-1664年)が1639年にフェアフィールドの土地を購入して認可され[5]、また1640年にはノーウォークの土地を購入した。ノーウォークの町としての認可は1651年だった。ラドローがフェアフィールドという名前を選んだとされている。アダム・ブレイクマン(1596年-1665年)によって、ストラットフォードの町が1639年に設立された。ウィリアム・ベアズレー(1605年-1661年)は1639年ストラットフォードの初期開拓者に入っていた。

1666年5月10日、ハートフォードのコネチカット植民地議会の法により、4つの郡が作られた。フェアフィールド郡、ハートフォード郡ニューヘイブン郡ニューロンドン郡だった[6]

当初のフェアフィールド郡にあった町は、ライ、グリニッジ、スタンフォード、ノーウォーク、フェアフィールド、スタンフォードだった。1673年、ウッドベリーが法人化されフェアフィールド郡に付加された。1683年、ニューヨーク植民地とコネチカット植民地の間にその境界について最終合意ができた。その結果、ライの町はニューヨークに移管された。17世紀後半から18世紀、コネチカットの西部で新しい町が幾つか法人化されフェアフィールド郡に追加された。1687年のダンベリー、1709年のリッジフィールド、1711年のニュータウン、1740年のニューフェアフィールドだった。1751年、新たにリッチフィールド郡が設立され、ウッドベリーの町が移管された。1788年ニュータウン、ダンベリー、ニューミルフォードの各町の一部を併せ、ブルックフィールドの町が法人化されたことで、フェアフィールド郡はリッチフィールド郡から領域を譲り受けることになった。これでフェアフィールド郡の領域が確定した。

初期の郡住人には次のようなものがいた。

ジョセフ・ホーリー(1603年イングランド生まれ、1690年没)、1629年にアメリカに渡り、1650年にストラットフォードに入植した。後にストラットフォードの初代事務官になった。その息子のエフレイムが1683年にトランブルでエフレイム・ホーリー邸を建て、これが現在も個人住宅として残っている。

トマス・フィッチ(1700年頃-1774年)、ノーウォーク出身、コネチカット植民地総督

ゴールド・セレック・シリマン(1732年-1790年)、フェアフィールド町出身、アメリカ独立戦争に従軍、1776年に准将、同年のニューヨーク・ニュージャージー方面作戦に参戦
ブリッジポートのレイク・トルペード・ボート社から浮きを付けて最進水する準備をするアメリカ海軍の潜水艦USS G-3、1915年12月9日1930年代のシコルスキー S-42、ストラットフォードで建造

アメリカ独立戦争時、コネチカットから莫大な農産物が生産され、非公式ながら「食料の国」と呼ばれるようになった[7]。1777年春、ニューヨーク市にあったイギリス軍総司令官ウィリアム・ハウが、コネチカットから大陸軍に流れる食料を止めるようウィリアム・トライアンに命じた。1777年4月22日、トライアンとヘンリー・ダンカンが26隻の艦船に2,000名の将兵を載せ、ダンベリーの大陸軍補給庫を襲撃するべく、ウェストポートのコンポビーチに上陸した。ストラットフォード生まれの大陸軍少将デイビッド・ウースター(1710年-1777年)がダンベリー補給庫の守備にあたり、僅か700名の部隊で守った。このダンベリー防衛のためにシビル・ルディントンがニューヨークの民兵隊を集めた。このニューヨークの民兵隊にはシビルの父ヘンリー・ルディントン大佐も入っていた。この部隊はダンベリーが燃やされたあとに到着したが、ダンベリーの守備隊を助け、4月27日のリッジフィールドの戦いでイギリス軍と戦った。ウースターはリッジフィールドで負傷し、5日後にダンベリーで亡くなった。

2年後の1779年2月26日、イギリス軍がグリニッジを襲撃し、その前夜にナップの酒場に泊まっていたイズラエル・パットナム将軍が馬を駆ってスタンフォードの住民に急報した。パットナムはイギリス兵に銃で撃たれたが、逃れることができた。被っていた帽子には銃弾で穴が開き、現在グリニッジのナッブの酒場に展示されている[8]

1779年夏、ウィリアム・トライアン将軍がアメリカ側に懲罰を与えるために、約2,600名の部隊を率い、コネチカット海岸の市民を標的に攻撃した。7月5日にニューヘイブンを襲撃し、7日にはフェアフィールドを攻撃して焼いた。7月10日にノーウォークを襲撃し、11日に町を焼いた。ノーウォークの民兵隊指揮官スティーブン・ベッツ大尉が侵略軍に対抗したが、勢力に勝るイギリス軍に圧倒され、退却を余儀なくされた。

フェアフィールド郡と隣のリッチフィールド郡ではデイビッド・シャーマン・ボードマン(1786年-1864年)が著名な弁護士かつ判事だった。

1801年10月7日、ダンベリー・バプテスト協会のネレマイア・ドッジなど会員が、当時のアメリカ合衆国大統領トーマス・ジェファーソンに手紙を書き、コネチカット州ではバプテストとして信教の自由を表明できないという心配事を伝えた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:87 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef