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フェアウェイ
欧字表記Fairway
品種サラブレッド
性別牡
毛色鹿毛
生誕1925年4月15日
死没1948年11月30日
父Phalaris
母Scapa Flow
母の父Chaucer
生国 イギリス
生産者第17代ダービー伯爵
馬主第17代ダービー伯爵
調教師フランク・バタース
競走成績
生涯成績15戦12勝
獲得賞金42,722ポンド
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フェアウェイ(Fairway、1925年 - 1948年)はイギリスの競走馬、種牡馬。1920年代後半に活躍した。日本に輸入されていないためフェアウェー[1]の表記も有り。 フランク・バタース調教師[2]の元で1927年5月に競走馬としてデビュー[3]。ジョージ・ラムトンは厩舎の総支配人の地位にあり、調教に携わっていなかった[3]。 デビュー戦では競走中にバランスを崩し6着に敗れたが、その後7月にかけて3連勝した[4]。 同馬を晩成型と見ていたダービー伯爵の側近ジョージ・ラムトンの判断から、この年はそれ以上レースに出走することなくシーズンを終えた。この年ジョッキークラブが発表した2歳フリーハンデではハーミット、ブランドに並び、126ポンドという高い評価を得た。 翌1928年、当初は2000ギニーに出走するプランが立てられていたがレース前日になって口腔内に膿種があることが判明し、出走を断念[5]。 陣営は目標をダービーステークスに切り替えた。フェアウェイは5月に前哨戦のニューマーケットステークス(10ハロン)を勝利し、翌6月6日のダービーステークスには本命で出走[5]。レース当日のエプソム競馬場は連日の好天気で馬場は引き締まっていた。馬主や調教師に加え、騎乗するウェストン騎手[6]も楽勝を信じて疑わなかった[5]。 しかし、出走馬19頭が下見所に現れてから10分足らずの頃、コースに出て観客席を横切るパレードの最中、フェアウェイは興奮した観客に取り囲まれ、馬体に触られ尻尾を引っ張られるなどされて神経を高ぶらせる[7][5]。 さらに発走時に騒ぐ馬が出てスタートが遅延するアクシデントに見舞われてますます苛立ちを募らせた[5]。 レースはスタートで出遅れ、ウェストンの鞭に応えずタッテナムコーナーから直線に入った時、先頭から1マイルも遅れ[8]、そのまま全く見せ場を作ることなく7着に敗れた。1着は穴馬のフェルステッドだった[5]。 この後しばらくフェアウェイはエプソムダービーのことを引き摺り神経質になっていたが、バタース調教師の努力で少しずつ回復すると、7月のエクリプスステークス(10ハロン)に挑んだ[9]。 このレースは名牝ブックロウなどが出走しており、フェアウェイは2番人気にもならなかったが2着馬に8馬身の着差をつけ優勝した[9]。 9月には最後のクラシックとなるセントレジャーステークス(14・5ハロン)に出走[9]。レース前に汗をかかなかったせいか本命になり、得意のストライドでフランスから遠征して来たパリロイヤルを破って優勝し、最後のチャンスをものにしてクラシック優勝馬となった[9]。 その後10月にチャンピオンステークスに出走。アルゼンチン馬フォリエイションを下し優勝し、5戦4勝でこの年のシーズンを終えた[9]。 翌1929年、4歳になったフェアウェイはシーズンオフをウッドランド牧場で過ごしてさらに充実し、バーウェルステークス、ルース記念ステークス、プリンセスオブウェールズステークスと3連勝した[9]。 エクリプスステークスに出走、全観衆の9割がフェアウェイの馬券を買っていたと言われる程推されるも、ゴール直前でバランスを崩し、ロイヤルミンストレルに4馬身差遅れて敗れたが、秋にはチャンピオンステークス連覇を果たし、15日後のジョッキークラブカップ(15fハロン)にも3馬身差で勝った[9]。 ジョッキークラブカップに勝った直後、陣営はフェアウェイの長距離適性を計るためにバタースの管理馬でゴールドカップ優勝馬のボスワース
経歴
競走馬時代
その結果フェアウェイが勝利し、適性ありと判断した陣営は翌1930年のゴールドカップを目指し激しい調教を課したが、途中で屈腱炎を発症し競走馬を引退した。[9]。
種牡馬時代