フィンランドの独立
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1917年のフィンランド元老院。最初の議長であるペール・スヴィンヒュー(写真中央)が首相の座についた。

フィンランドの独立は、1917年12月6日フィンランド独立宣言によりなされた。フィンランドは近世にスウェーデン=フィンランドとしてスウェーデンの1州だった時代や、ロシア帝国と同君連合のフィンランド大公国での自治時代を経て徐々に民族主義が高揚し、やがて独立につながった。目次

1 エリザヴェータ女帝の約束

2 国家意識の萌芽

3 1917年の議論

3.1 ロシア革命

3.2 権力法


4 独立宣言と11月15日

4.1 諸国の承認


5 フィンランド共和国の樹立

6 フィンランドの国の象徴

7 記念

8 脚注

9 関連項目

10 外部リンク

エリザヴェータ女帝の約束

独立国としてのフィンランドは18世紀、現代のフィンランドにあたる地域がスウェーデン領だった時代にはじめて言及された。1741年から1743年までのロシア・スウェーデン戦争でロシアがフィンランドを占領した後、ロシアのエリザヴェータ女帝はフィンランドを独立させるあいまいな約束をした。この約束により1742年にフィンランド王国(英語版)建国の準備がなされ、フィン人たちはホルシュタイン=ゴットルプ公ペーター(後のロシア皇帝ピョートル3世)をフィンランド王に選出した。しかし、その後の政治的情勢によりフィンランド独立は立ち消えとなった[1]
国家意識の萌芽 ヒュエッカウス(Hyokkays、「攻撃」)、エートゥ・イスト(Eetu Isto)作、1905年。この絵画はフィンランドのロシア化(英語版)の象徴であり、フィンランドを表すスオミネイトがロシアを表す双頭の鷲から法を守ろうとした。

マルッティ・ハイキオ(英語版)教授によると、国が独立を宣言する前には国家意識やいくつかの組織が必要である[2]。1809年、ロシア皇帝アレクサンドル1世ポルヴォー議会で宣言したように、フィンランドが自治の大公国として「国の中の国に昇格した」。このときから、フィンランドの統治体は徐々に発展、1863年からはフィンランド議会が定期的に招集された。1906年、一院制議会であるエドゥスクンタが成立、議員は普通選挙で選出された[3]

ヨーロッパを席巻した民族主義はフィンランドでは国家意識の高揚という影響をもたらした。ユーハン・ルードヴィーグ・ルーネベリエリアス・リョンロートは1830年代と1840年代に理想化したフィンランド人とフィンランドの自然の形象を創り出した[4]。またユーハン・ヴィルヘルム・スネルマンはフィンランドにおけるロマン主義とナショナリズムに関する議論の中心的人物であり、彼は教育においてスウェーデン語ではなくフィンランド語の使用を推進した[5]

1901年、ロシアは新しい徴兵法でフィンランド軍を変えようとした。この新しい徴兵法ではフィン人がフィンランドを守るだけではなく、全ての前線においてロシアのために戦うことを義務だとした。フィンランドの抵抗は大衆運動となり、兵士として適格なフィンランド人のうち徴集に応じたのは半分だけだった[6]

フィンランドのロシア化(英語版)の第二期、そして第一次世界大戦により、活動家で構成されたいくつかの組織が団結した。ヤーカリリーケ(英語版)(「猟兵運動」)はまず志願兵200人を、次に1,900人をドイツに派遣して猟兵の訓練を受けさせ、武装抵抗を準備した[7]
1917年の議論
ロシア革命

1917年の二月革命十月革命はフィンランド大公国に望みを与えた。ロシア皇帝兼フィンランド大公ニコライ2世が同年3月15日(グレゴリオ暦)に退位すると、ロシアとフィンランドの同君連合は(少なくともヘルシンキでの見方では)法的基礎を失ったとみられた。またフィンランド当局はロシア臨時政府とも交渉した。
権力法

ロシア臨時政府が批准した合意案はフィンランド議会で大きく変更され、最終的にはヴァルタラキ(フィンランド語: Valtalaki、スウェーデン語: Maktlagen、「権力法」)として成立した。フィンランド議会はヴァルタラキで[8]議会が外交と軍事を除く立法権を握ると規定、また議会の決議でしか解散されないとした。ヴァルタラキが成立した時点ではペトログラード七月蜂起によりロシア臨時政府が長く持たないとみられたが、結果的には臨時政府が勝利してヴァルタラキを否定、フィンランド議会を解散した。

その後、フィンランドでは選挙が行われた。ロシア臨時政府が十月革命で敗れると、フィンランド議会はフィンランドの憲法に基づき定員3名の摂政委員会を成立した。フィンランド憲法における摂政委員会の規定は1772年にスウェーデン王グスタフ3世の無血クーデターの後に制定された1772年スウェーデン憲法(英語版)に基づくものであった[9]。この規定では王家が断絶した場合の国王選挙を定めたが、フィンランドでは国王が空位の場合に議会が権力を持つと解釈された。しかし、フィンランドの社会主義者からの強い反対とゼネストにより、更に抜本的に手を打つ必要があったため、摂政委員会が選出されることはなかった。

1917年11月15日(グレゴリオ暦)、ボリシェヴィキはロシア人権宣言(英語版)で「全ロシア人民」の完全分離(英語版)を含む民族自決権を認め、同日にフィンランド議会が一時的(英語版)にフィンランドの主権を受け取るとの宣言を発した[10]。しかし、1772年スウェーデン憲法に基づく規定はすでに支持を失い、フィンランドの知識層はずっと君主制と世襲貴族を過去のものとしてこき下ろしており、共和制の憲法を支持していた。
独立宣言と11月15日


スウェーデン語で書かれたフィンランド独立宣言。

ペール・エヴィンド・スヴィンフッヴドは第一次スヴィンフッヴド内閣(英語版)を組閣、内閣は1917年11月27日に発足した。当面の急務は独立の達成であり、内閣は12月4日に独立宣言案と共和制の制度案を議会に提出した。


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