フィンセント・ファン・ゴッホの手紙
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ゴッホがアルルからエミール・ベルナールに送った手紙と、そこに描かれたスケッチ。

フィンセント・ファン・ゴッホの手紙(てがみ)では、画家フィンセント・ファン・ゴッホ1853年3月30日 - 1890年7月29日)が弟テオやその他の家族・友人らとの間で交わした手紙について述べる。
成立フィンセント・ファン・ゴッホ(1871年-1872年頃。当時18歳)。

ゴッホ美術館によれば、ゴッホが書いた手紙で現存するものは819通あり、そのうち弟で画商だったテオドルス・ファン・ゴッホ(通称テオ)に宛てたものが651通、さらにそのうちテオとその妻ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲル(ヨー)の2人に宛てたものが83通である[1]。その他の宛先には、画家アントン・ファン・ラッパルトエミール・ベルナール、妹ヴィレミーナ・ファン・ゴッホ(通称ヴィル)などがいる[2]

一方、ゴッホが受け取った手紙は83通残っており、うち39通がテオからのもの、2通はテオとヨー連名のものである[1]テオドルス・ファン・ゴッホ(1888年、当時31歳)。

ゴッホの最初の手紙は、1872年9月29日、テオに宛てたものであった。当時、ゴッホは19歳で、画商グーピル商会ハーグ支店で働き始めてから3年がたっていた[3]。この夏、まだ学生だったテオがハーグの兄のもとを訪れ、その直後にゴッホが手紙を書いた時から、2人の間の手紙のやり取りが始まった[4]。ただ、最初の3年ほどは、仕事のことなど決まりきった内容が多く、比較的短いものが多かった[3]

1875年夏に、ゴッホはキリスト教に関心を抱くようになり、手紙は聖書や宗教書からの引用が急激に増える。この頃、聖書のコリントの信徒への手紙二から「悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり」という引用をしているが、彼はその後もこれをモットーのように繰り返している。イギリスラムズゲート、そしてアイズルワースに移った1876年春には、長大な手紙が書かれるようになった。しかし、その後アムステルダムでの神学部受験勉強の失敗、ボリナージュでの伝道活動の失敗により聖職者になる道が閉ざされると、1879年からは宗教書からの引用は一気に消え去った[5]1870年代終わり頃からは、手紙はゴッホにとって感じたこと、考えたことを表現する手段という意味合いを持つようになった。また、ゴッホにとって、テオが、家族の中での唯一の理解者として位置づけられてくる[6]

1880年頃、画家になることを決意してからは、ゴッホの手紙の中での関心も専ら絵に向かう。そして、テオや、ラッパルト、ポール・ゴーギャン、ベルナールらに対して書かれた手紙からは、ゴッホが最初に素描に専念したこと、新たな画材を試みたこと、構図や正確な描写に苦労したこと、読書、他の芸術家との触れ合いや美術館への訪問などから刺激を受けたこと、色彩についての考え方、南仏でのアトリエの構想など、画家としての成長過程を詳細に知ることができる。一方で、衣食住など彼の日常の生活ぶりについては、情報が少ない[7]
保存状況

テオは、兄からの手紙を含め、大量の書類を捨てずに保管しており、それは、1891年にテオが亡くなった後は、妻ヨー、そして息子フィンセント・ウィレムに相続されてから、ゴッホ財団に引き継がれ、現在、ゴッホ美術館に保管されている[8]

もっとも、失われたと思われる手紙もある。1879年8月から、家族間の手紙が急激に減っており、テオがこの時期は手紙を保管していなかったか、捨ててしまった可能性もあるが、ヤン・フルスケルは、この時期のゴッホと家族との争いを露わにしすぎるという理由で隠滅された可能性があると考えている。1880年は、父がゴッホをヘールの精神病院に入れようとした時期である。1883年初頭の手紙も失われているとみられる[8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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