フィルモア・イースト
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フィルモア・イースト
Fillmore East現在は銀行店舗となっているフィルモア・イーストの正面玄関跡

概要
旧名称コモドア劇場
ヴィレッジ劇場
所在地ニューヨーク市マンハッタン区
2番街105番地
6丁目交差点付近
種類コンサート・ホール
ジャンルロック
座席数2,639
開業1968年3月8日
閉鎖1971年6月27日
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フィルモア・イースト (Fillmore East) は、ニューヨーク市マンハッタン区イースト・ヴィレッジ2番街東6丁目の交差点近くにあった、ビル・グラハム (Bill Graham) 所有のロック系のコンサート会場。1968年から1971年まで存続し、当時のロック界における最も重要なコンサートのいくつかが、この会場で行なわれた。フィルモア・イーストは、グラハムがサンフランシスコに所有していた彼の本拠地フィルモア・オーディトリアム、および、その後継施設であったフィルモア・ウェストと、同系列の施設であった。
前史

後にフィルモア・イーストに改装された劇場は、もともとこの辺りの2番街にイディッシュ語話者向けの演劇などを提供する劇場が集まり、「ユダヤ劇場街 (Jewish Rialto)」と称されていたころ、1926年にイディッシュ劇場 (Yiddish theater) として建設された[1]。当時の名称は「コモドア劇場 (the Commodore Theater)」であったが、その後、ローズ社 (Loews Inc.) の所有となって映画館に改装され「ローズ・コモドア (the Loews Commodore)」となった。さらに、その後「ヴィレッジ劇場 (the Village Theatre)」となり、1967年からはクリームザ・フードアーズなどのロック・バンドが出演するようになった。グラハムが劇場を手に入れたときには、建物は修復が必要な状態に陥っていた。劇場入口のファサードはとても狭い作りであるが、その奥の会場はおよそ2,700人を収容できた。
フィルモア・イースト時代

この場所を確保したことで、グラハムは、既に所有していたカリフォルニア州サンフランシスコのフィルモアと対になる東海岸の拠点を手に入れた[2]1968年3月8日に開場したフィルモア・イーストは、たちまち「The Church of Rock and Roll(ロックンロールの教会)」と称されるようになり、3組が出演するショーが一晩に2回公演される形態で、毎週数夜の公演が打たれるようになった。グラハムは定期的に東西のフィルモアの出演者を入れ替えた。1971年はじめまで、金曜日と土曜日に出演するバンドは、2夜連続で、各晩8時と11時の2回出演するよう番組が組まれていた。
おもな出演者

フィルモア・イーストのおもな出演者の中には、ジミ・ヘンドリックスもいた。ヘンドリックスのアルバム『Band of Gypsys』は、1970年元日に、ここでライブ録音された。ジョン・レノンは、1971年6月6日フランク・ザッパのバンドであるザ・マザーズ・オブ・インヴェンションのコンサートのアンコールにゲスト出演した。オールマン・ブラザーズ・バンドは何度もフィルモア・イーストに出演しており、「ビル・グラハムの箱バン (Bill Graham's House Band)」と呼ばれた。1968年のザ・フーのライブは、ピート・タウンゼントがギターを壊さなかったことで有名。1969年9月には、ジェファーソン・エアプレインが6回、タジ・マハールが8回、クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングが4回の公演を行なっていた[3]レッド・ツェッペリンは、アイアン・バタフライの前座として、1969年はじめに4回の公演をしている。1月31日の演奏を素人が撮影した映像が、ネット上のレッド・ツェッペリンのサイトで公開されている[4]

ジョシュア・ホワイト(Joshua White)が率いたザ・ジョシュア・ライト・ショー(The Joshua Light Show)は、多くの公演において演奏するバンドの背景にリキッド・ライト・ショー(liquid light show)の手法でサイケデリックな芸術的照明効果を演出し、重要な役割を果たした[5]1970年夏の以降は、ザ・ジョシュア・ライト・ショー出身のメンバーによって結成されたジョーズ・ライツ(Joe's Lights)が専属照明担当となり、1971年の閉場までこの体制が続いたが、一部の照明業務は、マーク・L・ルービンステイン(Marc L. Rubinstein)が率いたザ・ピッグ・ライト・ショー(The Pig Light Show)に委託されていた[6]

1970年9月23日には、PBSが放送用に公演を収録した。この時の出演者は、ザ・バーズエルヴィン・ビショップ・グループアルバート・キングシャ・ナ・ナヴァン・モリソンで、照明はジョーズ・ライツであった。
ライブ・アルバム

フィルモア・イーストは音響がすばらしかったために、数多くのライブ・アルバムがここで録音された。以下に挙例する。フィルモア・イースト最後の週末におけるデュアン・オールマン

オールマン・ブラザーズ・バンド ? フィルモア・イースト・ライヴ(At Fillmore East)(1971年

オールマン・ブラザーズ・バンド ? Fillmore East, February 1970(1997年リリース:Grateful Dead Records)

バッファロー・ボブ・スミス (Buffalo Bob Smith)[注釈 1] ? Live at Bill Graham's Fillmore East(1971年4月4日録音)

チェンバース ブラザーズ (The Chambers Brothers) ? Love, Peace and Happiness 2枚組アルバムの1枚がフィルモア・イーストにおけるライブ盤

ジョー・コッカー ? マッド・ドッグス&イングリッシュメン(Mad Dogs and Englishmen) ? The Complete Fillmore East Concerts(1970年3月27日 - 3月28日 録音:2006年リリース)

クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング - 4ウェイ・ストリート(4 Way Street) (1971年リリース)

マイルス・デイヴィス ? Live at the Fillmore East, March 7, 1970: It's About That Time (1970年3月7日 録音:2001年リリース) - マイルス・デイヴィスのいわゆる「最後のクインテット」のライブ演奏を収めた貴重な音源

マイルス・デイヴィス ? Miles Davis at Fillmore: Live at the Fillmore East(1970年6月17日 - 6月20日録音:1970年リリース)

デレク・アンド・ザ・ドミノス ? In Concert(1970年10月23日 - 10月24日録音:1973年リリース)


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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