フィリピン航空
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フィリピン航空
Philippine Airlines

IATA
PRICAO
PALコールサイン
PHILIPPINE

法人番号7700150000747
設立1941年3月
ハブ空港ニノイ・アキノ国際空港
マクタン・セブ国際空港
マイレージサービスマブハイ マイル
会員ラウンジマブハイ ラウンジ
航空連合未加盟
親会社PAL Holdings, Inc. (LTグループ
保有機材数65機
就航地56都市
スローガンHeart of the Filipino
本拠地フィリピンマニラ パサイ市
代表者ギルバート・サンタマリア(社長兼CEO[1]
外部リンクhttps://flights.philippineairlines.com/ja-jp/
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フィリピン航空(英語: Philippine Airlines)は、フィリピン航空会社で、フィリピンのナショナル・フラッグ・キャリアである。コーポレートスローガンは「Heart of the Filipino」。

イギリス・スカイトラックスによる航空会社の格付けで、「ザ・ワールド・フォー・スター・エアラインズ(The World's 4-Star Airlines)」(4つ星)の認定を得ている。フィリピンのエアラインとしては史上初の獲得。
概要

略称PAL。本社はパサイ市マニラ首都圏内のパサイ市とパラニャーケ市に、またがるニノイ・アキノ国際空港ハブ(拠点)となっており、同航空便は国際線は第1ターミナルから、国内線は第2ターミナルからそれぞれ発着する(共同運航便(コードシェア便)を除く)。国内便もフィリピンでは国民の重要な交通手段で航空券の座席予約システム(CRS)はSABREを利用している[2]

1941年3月に設立された、アジアでは最も長い歴史を持つ航空会社であり、フィリピンのナショナル・フラッグ・キャリアである[3]。1946年7月に太平洋横断便を開設しアジア初の国際線を開設。翌1947年5月にはマドリード線を開設しアジアの航空会社で初めてヨーロッパ乗り入れを開始。1967年には社長兼会長のベニグノ・P・トダ・Jrが、国際航空運送協会 (IATA)会長に選任された。1946年にIATAが創設されて以来アジア人が会長となるのは3人目であった。

国際線は1954年には国の政策、1998年にはアジア通貨危機と労働争議により一時運航停止になった。特に1998年9月には会社更生法を申請し、組合がスト賃上げ10年凍結の会社方針に反発、経営陣は組合員の解雇及び国内線も含めた全路線運航停止を発表した。同月には当時フィリピン国内2位の航空会社だったエアフィリピン(後のPAL エクスプレス)が安全上の理由によりフィリピン航空当局から飛行禁止措置を受けていた上に、中小航空会社のグランド・インターナショナル・エアウェイズ(英語版)も保険料や燃料代の支払困難を理由に運航を停止しており、フィリピンの航空業界は壊滅寸前の事態となった[4]。運航停止になった路線は同年内から復活するが、このような状況を憂慮したフィリピン政府が香港キャセイパシフィック航空に支援を要請し、約3 - 4カ月間、同社がフィリピン国内幹線を運航していた時期もあった。

これらの事情から、厳密にはここで旧フィリピン航空の歴史は設立57年で途切れているが、会社側のプレスリリースではそのまま存続させていて2001年には設立60周年を祝っている。

2008年4月14日に、マクタン・セブ国際空港をハブ空港とする子会社「PAL エクスプレス」を設立し、ボンバルディア DHC-8-Q300、DHC-8-Q400でフィリピン航空のジェット機では運航できない、フィリピン国内の小規模空港へ就航を始め徐々に就航地を増やし、エアバスA320などの小型ジェット機で運航されていたフィリピン航空の国内線も移管され、2009年10月27日からは、以前からチケット販売やマイレージサービスなどで営業提携関係のあったエアフィリピンに、PAL エクスプレスの運航が移管された。この移管に伴いPAL エクスプレスがマニラ発着で運航している路線は、エアフィリピンがターミナル開業から使用していた第3ターミナルビル発着へ変更された。2010年3月にPAL エクスプレスとAirPhil Expressを統合、エアフィル・エクスプレス (Airphil Express) の名称で運航していたが、2012年3月、ブランド名をPAL エクスプレスに変更した。

欧州連合(EU)が、フィリピン共和国航空当局の「安全確認の体制に問題がある」として、他の全てのフィリピンの航空会社とともに2010年3月30日からのEU域内への乗り入れ禁止が決定[5]。ただし、フィリピン航空は、1998年の会社更生法適用時にヨーロッパ方面への運航を打ち切っており、運航上の支障は生じなかった[6]。2013年7月10日にフィリピン航空のEU域内への乗り入れ禁止が解除されたと、フィリピン大統領報道官室が確認し発表した[7][8]。EU乗り入れ禁止の解除を受け、ロンドン/ヒースロー線が2013年11月4日から15年ぶりに再就航した[9]
沿革
起業、拡大

1941年

2月 - フィリピン有数の実業家アンドレス・ソリアノの率いる実業家グループにより、フィリピン航空が設立される。

3月 - それから1か月後、フィリピン航空は5人乗りの双発機、Beech Model 18でマカティのニールセン飛行場からバギオまでのフライトを運航。

9月 - フィリピン政府がPALに投資。航空会社国有化への道が開かれる。

9月2日 - PAL、
セブ島への就航を開始。


1946年

2月14日 - フィリピン国内15都市に就航し、第二次世界大戦後の運航を再開。機材は5機のダグラスDC-3を使用。

7月31日 -ダグラスDC-4のチャーター便で米軍人40名をアメリカに輸送。アジア初の太平洋横断フライトを運航した航空会社となる。給油のためにグアムウェーク島クェゼリン環礁ホノルルに着陸し、1回の横断飛行に41時間を要した。

9月5日 - 香港上海線を開設(DC-3)。FEATIもDC-4で同路線を運航。その後、マニュエル・A・ロハス大統領は、政府代表者が取締役会に参加することを条件に、新しい航空機を購入する目的で両航空会社に投資することに合意。

11月14日 - フィリピンと米国の間で航空協定を締結。協定ではフィリピンの太平洋横断路線を1路線に制限。PALは既に1路線を運航していた。一方、米系航空会社には2路線が認められた。また、フィリピンには米国へ、米国からの運航しか認められなかったが、米国にはマニラおよびマニラ以遠への第五の自由権が与えられた。国の復興のためにアメリカの援助を大いに必要としていたため、フィリピンにはその点において選択の余地がなかった。

12月 - マニラ ? サンフランシスコ間の定期便運航を開始。


1947年5月3日 - DC-4でローママドリード線の運航を開始。これにより、フィリピン航空は東南アジアの航空会社としてヨーロッパ初乗り入れを果たした。いずれのフライトも途中でカルカッタ(現・コルカタ)、カラチカイロに寄港しながら、2日間かかった。この年の年末までには、ロンドン線の運航も開始。

1948年5月29日 - 新規取得した2機のDC-6を太平洋横断路線に投入。新しい航空機の導入により、太平洋横断フライトの所要時間がDC-4の41時間から30時間に短縮。給油のためにクェゼリン環礁に寄港する必要がなくなり、経由地がグアム、ウェーク島、ホノルルのみとなった。

1949年8月6日 - 社長エルピディオ・キリノがPALのDC-6で渡米。フィリピンの最高経営者としてPALで太平洋を横断した初めての人物となる。

1951年11月16日 - 台北線就航。使用機材はDC-3。この年は280万フィリピン・ペソの利益を計上し、PALにとって史上最高の業績を上げた年となる。

1952年7月4日 - 初のダグラスDC-6Bを購入。後に国防長官となるラモン・マグサイサイが米国訪問から帰国する際に搭乗。DC-6Bはエルピディオ・キリノ大統領のインドネシア訪問に使用され、同月に就航したチューリッヒフランクフルト線にも投入される。


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