フィリピン独立革命
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フィリピンの歴史

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先史時代(900年以前)

ネグリト渡来 

古代(900年 - 1521年)

トンド 
マジャ・アス 
マニラ 
バトゥアン 
セブ 
マギンダナオ王国 
スールー王国 

植民地時代(1565年 - 1946年)

スペイン領東インド1565年 - 1898年
フィリピン総督領1565年 - 1898年
フィリピン独立革命1896年 - 1898年
カティプナン1892年 - 1897年
第一共和国1898年 - 1901年
アメリカ軍事政府(英語版)1898年 - 1902年
米比戦争1899年 - 1902年
フィリピン群島政府(英語版)1901年 - 1935年
フィリピン・コモンウェルス1935年 - 1942年
日本占領下1942年 - 1944年
亡命政府(英語版)1942年 - 1943年
フィリピン行政委員会1942年 - 1943年
第二共和国1943年 - 1945年
フィリピン・コモンウェルス1945年 - 1946年

現代(1946年以降)

第三共和国1946年 - 1965年
第四共和国1965年 - 1986年
暫定政府1986年 - 1987年
第五共和国1986年 - 現在

フィリピンの歴史

フィリピンの歴史 (900年-1565年)(英語版)900年 - 1565年
フィリピンの歴史 (1565年-1898年)(英語版)1565年 - 1898年
フィリピンの歴史 (1898年-1946年)1898年 - 1946年
フィリピンの歴史 (1946年-1965年)1946年 - 1965年
フィリピンの歴史 (1965年-1986年)1965年 - 1986年
フィリピンの歴史 (1986年-現在)1986年 - 現在
各年のフィリピンの一覧 

フィリピン ポータル
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スペイン語で「万歳!!!フィリピン共和国万歳!!!」("!!!VIVA LA REPUBULICA FILIPINAVIVA!!!")と書かれたフィリピン革命軍

フィリピン独立革命(フィリピンどくりつかくめい)は、19世紀末から20世紀初めにかけてフィリピンで起こったスペイン植民地支配からの独立革命である。単にフィリピン革命(: Philippine Revolution)とも、年代にちなんで「(フィリピン)1898年革命」とも称される。

ただし、後述の通り前段として「1896年革命」も存在するので1898年革命という場合、狭義の独立革命を意味する。
概要

16世紀後半以降、スペインの植民地支配のもとに置かれていたフィリピンでは、19世紀後半に植民地統治の改革を目指すプロパガンダ運動が展開され、これが急進化して1896年の独立革命と発展した。しかしこの第一の革命はいったん敗北し、1898年米西戦争に乗じて第二の革命が起こった。1898年革命はフィリピン人による独自の議会開設と憲法制定を実現したが、スペインとの講和条約によりフィリピン領有権を獲得したアメリカ合衆国は独立を否定、米比戦争が開始された。フィリピン人たちはゲリラ戦でねばり強く抵抗したが結局のところ敗北し、アメリカによる植民地支配が開始された。1916年、マニュエル・ケソンの尽力によりフィリピンの自治を認めるジョーンズ法が成立し、さらに1934年になって10年後のフィリピン独立を認めるフィリピン独立法が成立、フィリピン独立への道が開かれた。しかし1942年の日本軍侵攻によって中断。このため真の独立は第二次世界大戦後の1946年まで持ち越されることになる。なお、アメリカ政府の側は以上の一連の動向を、革命ではなく「フィリピン反乱」 (Philippine Insurrection) と称している。
経緯

フィリピン独立革命は「1896年革命の時期」「1898年革命の時期」「米比戦争の時期」に3大別される。
前史プロパガンダ運動の3人の指導者 / 左からリサール、デル・ピラール、ポンセ

スペインにより植民地として支配されていたフィリピンでは、1834年マニラ開港以降の社会変容によりフィリピン人の新興有産層が急速に台頭した。留学などを通じて高等教育を受け学識を身につけた彼らは、支配者たるスペイン人と被支配者である自分たちフィリピン人の間に存在する地位の不平等を認識するようになった。

このような新興ナショナリズムの流れの中で、最初にスペイン支配への異議申し立てを行ったのはフィリピン人神父たちである。彼らはスペイン人修道会士が頂点に立つフィリピンのカトリック教会において、フィリピン人であるがゆえに教区主任司祭への昇進を阻まれている状況に不満を持ち、差別を撤廃すべくゴンザレス・ブルゴス・サモラの3神父を指導者に教会改革運動を起こした。しかしスペインの植民地政庁は、1872年1月20日軍港カビテで労働者による暴動が起こると、その黒幕であったという濡れぎぬを先述の3神父に着せ、同年2月17日3人全員を処刑して教会改革運動を圧殺した。これを、3人の神父の名前からゴンブルサ事件(英語版)という。マルセロ・デル・ピラール

続いて1880年代になって民族主義的知識人(「イルストラド」illustrado と呼ばれる)は、スペインに対してフィリピン人の政治参加を求めるプロパガンダ運動を展開した。1882年マルセロ・ヒラリオ・デル・ピラールは最初のタガログ語日刊紙『タガログ新聞』(スペイン語とタガログ語の併用紙)を創刊して修道会による地方政治支配を批判し、1887年ホセ・リサールは支配者たちの腐敗と堕落と厳しく糾弾した長編小説『ノリ・メ・タンヘレ』をベルリンで出版して国際的注目を集めた。1889年2月15日バルセロナで運動の機関誌として創刊された『団結』(La Solidaridad)は、のちにデル・ピラールによって編集されるようになった。この段階で民族運動の主流は植民地支配の腐敗の打破を訴えるきわめて穏健な啓蒙的改革運動に過ぎず、当時のリサールはフィリピンの独立を否定していた。しかしスペイン政庁はこうした運動の存在すら許さず、亡命から帰国して1892年7月3日ラ・リガ・フィリピナ(フィリピン民族同盟)を結成したリサールを逮捕し、同月6日ミンダナオ島ダピタンへの流刑に処した。また資金不足を主な原因として『団結』誌も1895年11月15日をもって停刊となった。かくして10年以上にわたる運動であったにもかかわらず、プロパガンダ運動は改革という面では何ら目立った成果を上げることもできなかったのである。
1896年革命カティプナンの創立者ボニファシオカティプナンのメンバー革命政権のアギナルド大統領

リサール逮捕によりフィリピン同盟に参加していたアンドレス・ボニファシオは改革運動に見切りを付け、流刑の日の1892年7月6日、フィリピン独立を求める秘密結社カティプナンマニラ市内トンド地区で結成した。彼らは1896年3月、会の機関誌である『独立』 (Kalayaan) を創刊する(弾圧を避けるため同誌の発行地は日本横浜と偽装された)一方、フィリピンに寄港した日本海軍の練習艦「金剛」に乗船していた日本軍人との接触を求め、5月4日にはボニファシオら幹部が世良田亮艦長と会談し革命への援助を要請した。

しかしカティプナンの存在はまもなくスペイン当局の知るところになり、同年8月19日には官憲による弾圧が開始された。進退窮まったボニファシオらは8月30日に武装蜂起を開始(サン・ファン・デル・モンテの戦い)し、これにより独立革命が始まった。当初、マニラ市内の戦いではカティプナンは苦戦を強いられたものの、マニラ近郊のカビテ州に革命が波及すると独立派は勢力を巻き返し、10月にはこの地方のカティプナン組織をまとめていたエミリオ・アギナルドらによってカビテ州東部の支配が確立され、ボニファシオを中心とするカティプーナン組織から分離して独自の勢力を形成した。これをみたスペイン当局は、流刑地からマニラに召喚したリサールを反乱教唆のかどで12月30日に処刑し、独立派の反発を一層かき立てることになった。

リサール処刑の前後から独立派内部の抗争が顕在化し、独立派内の上層階級を代表するアギナルドと下層階級を代表するボニファシオと独立革命の指導権をめぐり激しく対立した。アギナルドはもともとスペインによりカビテの町長に任命された人物で、地方社会で力を持つプリンシパリーア(町役人・地方)層の出身者である。資産家・大土地所有者も多かったこの社会層は、おおむね自分たちの既得権を維持拡大することに関心を持ち(それゆえカビテ州など南部タガログ地方で最大の地主であった修道会の解体を願っていた)、ボニファシオ派による社会改革の要求についても、みずからの社会基盤を脅かしかねないものとして冷淡な態度をとった。1897年3月22日カティプナン指導部によるテヘロス会議で両者は対決したが、スペイン植民地軍との戦いで勝利をおさめていたことから政治的優位に立っていたアギナルド派が会議で優勢となり、アルテミオ・リカルテ派の支持も獲得して会議ではアギナルドを革命政府大統領に選出した。敗れたボニファシオ兄弟は議場から退出しアギナルドと袂を分かって独自の革命を目指すことになった。しかしボニファシオ派の離反を恐れたアギナルドは彼らを捕らえて1897年5月10日兄弟ともに処刑、独立派の全権を掌握した。

その一方で1896年10月から1897年初めにかけてスペイン本国から兵力を補給され、態勢を立て直した植民地軍は反撃を始め、一時はルソン島中南部を掌握していた独立派は、ボニファシオ処刑の翌日には根拠地のカビテを放棄し、山岳部のブラカン州ビアク・ナ・バトーに追いつめられた。ここでアギナルドらは11月1日独自の憲法(ビアク・ナ・バトー憲法)を制定、「フィリピン共和国」(ビアク・ナ・バトー共和国)の成立を宣言したが劣勢はおおいがたく、11月18日から12月15日にかけて、スペイン総督との和平協定を結び、スペインによる改革実行の確約と引き替えにアギナルドらはいったん香港に退去、ここに亡命指導部を設けた(12月25日)。しかしその一方でボニファシオらの流れを汲む人々はなお独立をめざす戦いを各地で継続していた。
1898年革命マロロスの革命議会(当時の写真)アギナルドの大統領当選を飾る祝勝門(1899年1月)

1898年4月25日キューバ独立革命をきっかけとした米西戦争が勃発する。


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