この項目では、1941年から1942年におけるフィリピンでの戦闘について説明しています。
1944年から1945年におけるフィリピンでの戦闘については「フィリピンの戦い (1944年-1945年)」をご覧ください。
.mw-parser-output .pathnavbox{clear:both;border:1px outset #eef;padding:0.3em 0.6em;margin:0 0 0.5em 0;background-color:#eef;font-size:90%}.mw-parser-output .pathnavbox ul{list-style:none none;margin-top:0;margin-bottom:0}.mw-parser-output .pathnavbox>ul{margin:0}.mw-parser-output .pathnavbox ul li{margin:0}第二次世界大戦 > 太平洋戦争 > 南方作戦 > フィリピンの戦い (1941年-1942年)
フィリピンの戦い
マニラに向け進軍する日本軍の戦車部隊
戦争:太平洋戦争
年月日:1941年12月8日 - 1942年5月7日[1]
場所:アメリカ領フィリピン
結果:日本軍の勝利、アメリカ軍は降伏しその後日本はフィリピンを占領[2]。
交戦勢力
大日本帝国 アメリカ合衆国
米領フィリピン
指導者・指揮官
本間雅晴
小畑英良
高橋伊望
塚原二四三
前田正実
和知鷹二 ダグラス・マッカーサー
ジョナサン・ウェインライト
マニュエル・ケソン
戦力
第14軍開戦時
陸軍主力3万4856人
船舶部隊4633人
第5飛行集団3621人[3]米比軍1941年12月当時
計約15万人
極東派遣部隊3万1095人
フィリピン部隊1万1957人
本国の兵士8500人[4]
損害
4130人戦死
287人行方不明
6808人負傷[4]約2万5000人戦死
約2万1000人負傷
捕虜約8万3631人[4]
南方作戦
真珠湾
マレー
マレー沖
シンガポール
フィリピン
フィリピンの戦い(フィリピンのたたかい、英語: Battle of the Philippines)では、1941年から1942年のフィリピンでの戦闘について述べる。1941年12月8日の太平洋戦争勃発とともに日本軍はフィリピンの連合国軍と戦闘を開始[5]、1942年6月9日までに孤立した部隊を除き連合国軍の全部隊が降伏して戦闘は終了した[6]。 フィリピンは1899年以降アメリカの植民地となっていた。アメリカは、想定される日本による攻撃からフィリピンを守るため、1924年にオレンジ計画を具体化していた。だが計画には根本的な限界があった。マニラ湾の港には大艦隊を支援できる能力はないので、海軍基地は5,000マイル離れた真珠湾を使うしかない。日本の基地はフィリピンから1,500マイルしかなく、日本は短期間に大兵力を送り込むことができる。このような実情に合わせて、1936年に改定されたオレンジ計画(WPO-3)では、フィリピン全土の防衛は断念して兵力をマニラ湾周辺に集中する案が採用された。 だがダグラス・マッカーサー司令官はこの案に不満であった。マッカーサーは1935年にアメリカ陸軍参謀総長を退任し、マニュエル・ケソンの要請でフィリピン軍新設のための軍事顧問に就任していた。
背景
戦前のフィリピン