フィリップ6世
Philippe VI
フランス国王
在位1328年 - 1350年
戴冠式1328年5月29日、ノートルダム大聖堂(ランス)
出生1293年
フランス王国、ノジャン=ル=ロワまたはクーロム?[1]
死去1350年8月22日
フランス王国、ウール=エ=ロワール、クーロンブ修道院
埋葬 フランス王国、サン=ドニ大聖堂
配偶者ジャンヌ・ド・ブルゴーニュ
ブランシュ・デヴルー
子女一覧参照
家名 ヴァロワ家
王朝ヴァロワ朝
父親ヴァロワ伯シャルル
母親マルグリット・ダンジュー
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フィリップ6世の戴冠
フィリップ6世(Philippe VI de Valois, 1293年11月17日 - 1350年8月22日)は、ヴァロワ朝初代のフランス王(在位:1328年 - 1350年)。アンジュー伯、メーヌ伯
を兼ねる。フィリップ3世の四男ヴァロワ伯シャルルと最初の妃マルグリット・ダンジューの子。最初の妃はブルゴーニュ公ロベール2世の娘ジャンヌ。最晩年にエヴルー伯・ナバラ王フィリップ・デヴルーの娘ブランシュ・デヴルーと再婚した。幸運王と呼ばれた。1325年に父ヴァロワ伯シャルルが薨去し、ヴァロワ伯位を継承した[2]。1328年にシャルル4世が男子を残さず崩御し、妊娠中であったシャルル4世の王妃ジャンヌ・デヴルー(フィリップ・デヴルーの妹)がその没後に出産したのは女児ブランシュ(フィリップ6世の息子オルレアン公フィリップと結婚する)であった[3]。こうしてフィリップ4世の男系男子が途絶えたため、フィリップ3世の男系の孫として、貴族と聖職者の会議でフィリップが選ばれて即位した。
すでに12年前、ルイ10世崩御の際(正確には、ルイ10世の死後に生まれたジャン1世遺児王の死後)、フランク人(サリー・フランク族)の古法であるサリカ法を根拠に女系継承を排除していたため(サリカ法の発見及び王位継承への適用はシャルル5世の代であり[4]、ルイ10世から弟フィリップ5世への王位継承は、ルイ10世の娘ジャンヌの嫡出性への疑義が挟まれたためであるとする説もある)、フィリップ4世の女系の孫であるイングランド王エドワード3世が王位継承権を主張したものの、フィリップの即位は異議なく受け容れられた[4]。しかし、それまで同君連合の下にあったナバラ王国では女系継承が認められており、またフィリップ自身はナバラ王家の血を引いていなかったため、ルイ10世の娘ジャンヌが王位を継承した(フィリップの2番目の王妃ブランシュはジャンヌとフィリップ・デヴルーの娘である)。
1328年、3年前から織布工の市民と農民の反乱に苦しんでいたフランドル伯ルイ1世を援助し、8月23日カッセルで反乱軍に勝利する[5]。翌年、フランス王位候補者の一人だったイングランド王エドワード3世が、フィリップの王位を認め、ギュイエンヌの所有についてアミアンで臣従の宣誓(オマージュ)を行った[6][7][8]。ところが1333年、エドワードと対立したスコットランド王デイヴィッド2世がフランスに亡命してきた際、フィリップがこれを歓迎した[9][10]。一方エドワード3世も、アルトワ伯領を巡ってフィリップ6世と対立していたロベール3世・ダルトワの亡命を受け入れていた[11][12]。フィリップ6世がロベール3世・ダルトワの引き渡しをエドワード3世に要求するも拒否されると、フィリップ6世はエドワードに対しアキテーヌ公領およびポンティユー伯領の没収を宣言、1337年に始まる英仏百年戦争が勃発した[11][13]。1340年にはエドワード3世はフランス王を称した[13]。
1340年6月23日、フィリップの艦隊はスロイスの海戦でイングランドに敗れる[14][15][16]。さらに1346年8月26日、クレシーの戦いでフランス軍は「いとも大いなる、且ついとも恐るべき」と歴史家ジャン・フロワサールに言わしめたほどの敗北を喫した[17][18][19]。