フィリップ・ド・ロレーヌ
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フィリップ・ド・ロレーヌ
Philippe de Lorraine


出生1643年1月1日

死去1702年12月8日
フランス王国パリ
子女(庶子)アレクサンドル
家名ギーズ家
父親アルクール伯アンリ
母親マルグリット・フィリップ・デュ・カンブ
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フィリップ・ド・ロレーヌ(Philippe de Lorraine, 1643年 1月1日- 1702年12月8日)は、フランスブルボン朝の貴族。上級貴族ギーズ家の一員で、分家のエルブフ公シャルル1世の次男のアルクール伯アンリの次男として生まれた。美男子であったことからフランス王ルイ14世の弟のオルレアン公フィリップ1世男色相手として寵愛された。シュヴァリエ・ド・ロレーヌ(Chevalier de Lorraine)の通称でも知られる。
生涯

ルイは父亡き後の1666年にアルマニャック伯に叙せられ、シュヴァリエはシャルトル教区のサン=ピエール修道院長職を与えられたが、1658年からフィリップ1世の愛人となりパレ・ロワイヤルに住み着くようになった。この頃、清教徒革命で亡命していたフィリップ1世の叔母ヘンリエッタ・マリアと娘で従妹のヘンリエッタ・アン(アンリエット・アンヌ)もパレ・ロワイヤルに住んでいた。

1661年にフィリップ1世とアンリエットは結婚したが、フィリップ1世とシュヴァリエの関係は続きアンリエットは無視されていた。1670年にアンリエットをルイ14世に讒言したためリヨン、次にシャトー・ディフへ、最後にローマへ追放された。同年にアンリエットは急死したが、復讐を企てたシュヴァリエが暗殺したとの噂が流れた。翌1671年、フィリップ1世はルイ14世の勧めでエリザベート・シャルロット(リーゼロッテ)と再婚したが、シュヴァリエをフランスへ呼び戻すことを条件に挙げたため、1672年にフランスへ戻りフィリップ1世との関係を継続していった[1]

フィリップ1世に対する影響の大きさを利用して、フィリップ1世とリーゼロッテの息子フィリップ2世の教育係を選んだり、1692年にはフィリップ2世とルイ14世の庶子フランソワーズ・マリーを結婚させた。リーゼロッテはこの結婚について何も伝えられなかったことと、庶子であり身分違いであることを不満に思い、叔母ゾフィーに宛てた手紙で悲しみを伝えている。その後もフィリップ1世の側近として仕えたが、1701年にフィリップ1世が死去してリーゼロッテと和解、翌1702年に死亡した。晩年は借金で友人に葬式代を持ち寄る程だったといわれる[2]

嫡子はいなかったが、庶子アレクサンドルが確認されている。また、姪マリーはモナコ大公アントワーヌ1世に嫁ぎ、ルイーズ=イポリットを産んでいる。
脚注^ 戸張、P171 - P172、宮本、P23 - P25、P28、P33。
^ 宮本、P187 - P190、P230。

参考文献

戸張規子『ブルボン家の落日』人文書院、1991年。

宮本絢子『ヴェルサイユの異端公妃―リーゼロッテ・フォン・デァ・プファルツの生涯』鳥影社、1999年。

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