フィリップ・トルシエ
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フィリップ・トルシエ

名前
本名オマル・トルシエ
(ムスリム名、旧名:フィリップ=ベルナール・ヴィクトル・トルシエ)
愛称フィフィ
白い呪術師
赤鬼
ラテン文字Omar Troussier
(former:Philippe-Bernard Victor Troussier)
俗名Philippe Troussier
基本情報
国籍
フランス
コートジボワール
生年月日 (1955-03-21) 1955年3月21日(69歳)
出身地パリ
選手情報
ポジションDF
ユース
1974-1975 ショワジー=ル=ロワ
1975-1976 ジョアンヴィル
クラブ1
年クラブ出場(得点)
1976-1977 アングレーム 22 (0)
1977-1978 レッドスター 3 (0)
1978-1981 ルーアン 79 (8)
1981-1983 スタッド・ランス 38 (0)
監督歴
1983-1984 フランス U-15
1984-1987 アランソン
1987-1989 レッドスター
1989 クレテイユ
1989-1992 ASECミモザ
1993 コートジボワール
1994 カイザー・チーフス
1995 CAラバト
1995-1997 FUSラバト
1997 ナイジェリア
1997-1998 ブルキナファソ
1998 南アフリカ共和国
1998-2002 日本
1999 U-20日本
1999-2000 U-23日本
2003-2004 カタール
2004-2005 マルセイユ
2005 モロッコ
2008-2010 FC琉球 (総監督)
2011-2013 深?紅鑽
2014 CSスファクシアン
2015 杭州緑城足球倶楽部
2019-2021 U-19ベトナム
2023-2024 ベトナム
2023-2024 U-23ベトナム
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

フィリップ・トルシエ(Philippe Troussier、1955年3月21日 - )は、フランス出身のサッカー指導者、元サッカー選手。本名・ムスリム名:オマル・トルシエ(Omar Troussier)、旧名:フィリップ=ベルナール・ヴィクトル・トルシエ(Philippe-Bernard Victor Troussier)。

1998年から2002年まで日本サッカー協会の要請を受け、サッカー日本代表監督となる。アフリカでは「白い呪術師」(フランス語:sorcier blanc、英語:white witch doctor)とよばれる。

2006年3月に在住地のモロッコで、夫人とともにイスラム教に改宗し[1]ムスリムとなり、本名・ムスリム名を「オマル」とし(夫人は「アミナ」)、さらにモロッコ人の少女を養子にとる。その後も仕事上ではフィリップ・トルシエを使用する。
生い立ち

1955年、フランス・パリで6人兄弟の長男として生まれる[2]。14歳離れた末弟のリュドヴィクも後にフィリップの助力によりラヴァルでプロのゴールキーパーとなる[3]。一家は1958年に両親の故郷であるサルト県アルナージュ(フランス語版)に移ったが[4][5]、1967年(または1966年[6])に再びパリに戻った[7]

パリではASフレヌというクラブに入り、初めてサッカークラブに所属した[7]。1968年にはRATP(パリ交通公団)が運営するUSメトロというクラブに加入し、13歳から19歳までプレーした[8]。中学を卒業後、トルシエはRATPの専門学校に進学した[9][10]。1974年にRATPに就職し、自動券売機のメンテナンスを担当[11][12]、サッカーは公団のアマチュアクラブで続けながら、プロサッカー選手となることを夢見ていた[12]
選手経歴

アマチュアクラブのショワジー・ル・ロワ[13]とパリ・ジョアンヴィル[13]でプレーした後、1976年7月にフランス2部リーグのアングレーム(フランス語版)と契約を交わす[14]

1977年、トルシエを見出したアンリ・スキバ(フランス語版)[15][16]がクラブを去ると、トルシエは後任監督のポール・レヴァン(フランス語版)とはそりが合わず[17]、1977年11月にロジェ・ルメールが監督を務めるフランス2部のレッドスターに移籍した[18][17]。トルシエは「もっとも影響力の強い監督」としてスキバとルメールの名前を挙げている[19]。レッドスターでは経営難から選手にはまともに給料も支払われず、1977-78シーズンの2部リーグ・グループBでは3位という成績にも関わらずプロ資格を失いディヴィジョン・ドヌールに降格した[20][21]

1978年、トルシエはルーアンに移籍し、3シーズンで79試合に出場、8ゴールを挙げた[22]。選手生活と並行して学業にも励み、1981年には運動療法士の資格を得た[15]。1981年、スタッド・ランスに移籍。最初のシーズンは31試合に出場したが[23]、翌シーズンは8試合の出場にとどまった[24]。1983年に初級の指導者ライセンスを取得して国立サッカー研究所(INF)からU-15フランス代表の指導を打診されたトルシエは、ランスとの間に残っている1シーズンの契約を破棄して、28歳でサッカー選手から指導者へと転じた[25][26]
指導者経歴
フランスにて

1983年、トルシエは国立サッカー研究所(INF)でU-15フランス代表の指導を1年間受け持った。このときのチームにはジャン=ピエール・パパンがいた[27]

1984年、フランス4部リーグ所属のアマチュアクラブ・アランソン(フランス語版)監督に就任し、3年間指揮を執った[28]

1987年、フランス3部リーグのASレッドスター93の監督に就任した。1988-89シーズンには北リーグの2位となり、クラブを2部に昇格させた[29][30][31]。「フラット3」をベースとするシステムが形をみたのは、このレッドスター時代であるとトルシエは考えている[32]

1988-89シーズン終了後、レッドスターはトルシエに留任を要請したが、彼は予算が潤沢な2部リーグのUSクレテイユからのオファーを選択した[33]。しかし、クレテイユではクラブ幹部との確執により、就任から3ヶ月後の1989年10月に監督を辞任した[34]
コートジボワールにて

かつてフランスのクラブでプレーしていたチャド人のナンバティング・トコ(フランス語版)の紹介により[35]、1989年12月にコートジボワールASECミモザ・アビジャン監督に就任した。選手たちが「甘やかされている」と感じたトルシエは、遅刻禁止、食事管理の徹底をはじめとする厳しい規律をクラブにもたらし、不敗のまま3シーズン連続(1990、1991、1992)の国内リーグ優勝[36]、1990年に国際大会UFOAカップ(英語版)優勝[37]に導いた。トルシエの常軌を逸した行動や発言は地元の人々の関心を集め、ジャーナリストたちに数多くの話題を提供した[38][39]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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