フィリップ・シャイデマン
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ドイツ国政治家フィリップ・シャイデマンPhilipp Scheidemann

生年月日1865年7月26日
出生地 ドイツ連邦
ヘッセン選帝侯国カッセル
没年月日 (1939-11-29) 1939年11月29日(74歳没)
死没地 デンマークコペンハーゲン
所属政党 ドイツ社会民主党
配偶者ヨハンナ・ディバーン
親族リナ
リーゼ
ヘドウィグ
ドイツ国
初代首相
内閣シャイデマン内閣
在任期間1919年2月13日 - 1919年6月20日
大統領フリードリヒ・エーベルト
人民委員政府
共同委員長
在任期間1918年12月29日 - 1919年2月11日
首相フリードリヒ・エーベルト
ドイツ共和国臨時政府
植民地大臣
内閣エーベルト内閣
在任期間1918年12月13日 - 1919年2月13日
臨時大統領フリードリヒ・エーベルト
人民委員政府
財務担当委員
在任期間1918年11月10日 - 1919年2月13日
首相フリードリヒ・エーベルト
 ドイツ帝国
無任所国務長官
内閣フォン・バーデン内閣
在任期間1918年10月4日 - 1918年11月9日
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世
その他の職歴
カッセル市市長
1919年11月19日 - 1925年10月1日
 ドイツ帝国
帝国議会副議長
1918年6月 - ?)
ドイツ社会民主党党首
1917年 - 1919年
ドイツ社会民主党
党議員団長
1913年 - ?)
ドイツ社会民主党書記長
1911年 - ?)
カッセル市市議会議員
1908年 - 1911年
 ドイツ帝国
帝国議会議員
1903年 - 1918年
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フィリップ・ハインリヒ・シャイデマン(ドイツ語: Philipp Heinrich Scheidemann、1865年7月26日 - 1939年11月29日)は、ドイツ政治家ドイツ社会民主党の議員として、第一次世界大戦後まもなく首相を務めた。ドイツ革命に際して、共和国設立の宣言を行った人物として知られる。
生涯
SPD

1865年7月26日、ヘッセン選帝侯国の首都カッセルで革職人のフリードリヒ・シャイデマン(1842-79)とその妻ヴィルヘルミーネ(旧姓パープ、1842-1907)の間に生まれた。1879年から1883年までの印刷工の徒弟修業を経て、印刷工、社会主義系ジャーナリストなどとして働く。1883年にドイツ社会民主党(SPD)に入党する。1909年からは「ヘンナー・ピッフェンデッケル」の筆名で地元紙にヘッセン方言で書いた小説を連載していたこともある。

1903年にSPDからゾーリンゲンの選挙区でライヒ議会議員に初当選し、1918年まで議席を維持した。1908年から1911年まではカッセル市議会議員を兼ねた。1911年にSPD党書記局の執行委員(書記長)となった。1912年のライヒ議会選挙後、シャイデマンは社会民主主義者として初めて議会の「第一副議長」に就任した。1913年にSPDの長年のリーダーであったアウグスト・ベーベルが亡くなると、フーゴ・ハーゼと共にライヒ議会で党議員団長に就任する。彼の演説能力やユーモアな感覚などは党を超えて高評価された。1914年に第一次世界大戦が勃発すると、当初は戦争を支持する立場をとって党内の反戦派と対立したが、大戦末期には併合や賠償要求のない妥協的講和(Verstandigungsfrieden)を主張した。シャイデマンは党内の穏健派と極左派の調停に努めたが、最終的な分裂を防ぐことはできなかった。1917年、SPDは戦費調達継続の問題で分裂し、シャイデマンはフリードリヒ・エーベルトとともに「多数派」SPDの共同議長となった。大戦末期の1918年6月、ライヒ議会副議長に就任する。またライヒ宰相バーデン公子マクシミリアンの下で無任所国務長官(無任所大臣)を務めた。SPDは1912年からライヒ議会で最多の議席を持っていたが、これはSPDメンバーがライヒ政府に参加した初めての機会であった。シャイデマンはその人気によって新政府に入閣した。
ドイツ革命共和制宣言を行うシャイデマン(1918年11月9日)、ただし写真は数か月後に撮りなおされたもの[1]

1918年11月にドイツ革命が勃発し、革命を支持するデモ隊がライヒ議会に迫った。マクシミリアン・フォン・バーデンライヒ宰相は、皇帝ヴィルヘルム2世の退位(ドイツ語版、英語版)と皇太子ヴィルヘルムの王位継承権の放棄を一方的に宣言した。しかし、ライヒ宰相とSPD党首のフリードリヒ・エーベルトは、革命が起きても君主政を維持することを希望していた。マクシミリアン・フォン・バーデンは、ヴィルヘルム2世の弟を帝位に就かせることを希望していた。こうした状況下の11月9日、皇帝の退位と共に次官を辞した。同日正午頃、フリードリヒ・エーベルトがライヒ首相官邸に到着し、統治権を自分とSPDに譲ることを要求した。フォン・バーデンは辞職し、違憲のままエーベルトを後継のライヒ宰相兼プロイセン王国首相に指名した。シャイデマンを含むすべての国務長官は留任した。エーベルトは、街頭の大衆に静粛と帰宅を求める布告を発した。その後、エーベルトとシャイデマンは、昼食のためにライヒ議会議事堂に行き、別々のテーブルに座った。外には大群衆が集まり、演説を求める声もあった。エーベルトは群衆に向かって話すことを拒否したが、シャイデマンは立ち上がり、群衆に面した窓際に駆け寄り、ライヒ議会議事堂の窓からデモ隊に向かって「古く腐った帝政は崩壊した。新しきドイツの共和国、万歳!(Das Alte und Morsche, die Monarchie ist zusammengebrochen. Es lebe das Neue; es lebe die deutsche Republik!)」と共和国樹立の宣言を行った(ただしこの宣言は社会民主党の総意ではなく、のちに大統領となるエーベルトは彼の行動に反発を示している)。ライヒ議会の食堂に戻ると、激怒したエーベルトが彼に詰め寄り、テーブルを拳で叩きながら、「お前には共和国を宣言する権利はない!」と怒鳴った。シャイデマンはそれに対し、「ドイツがどうなるかは、共和国であろうと何であろうと、それは小選挙区制の議会が決めることだ!」と反論した。その日のうちに、シャイデマンの宣言にもかかわらず、エーベルトはフォン・バーデンにライヒの摂政として留まるよう求めたが、拒否された[2]


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