フィリッパ・スカイラー
スカイラー(1959年)
基本情報
原語名Philippa Schuyler
出生名Philippa Duke Schuyler
生誕 (1931-08-02) 1931年8月2日
アメリカ合衆国 ニューヨーク ハーレム
出身地 アメリカ合衆国
死没1967年5月9日(1967-05-09)(35歳没)
ベトナム共和国 ダナン
ジャンルクラシック音楽
職業ピアニスト、作曲家、ジャーナリスト
担当楽器ピアノ
フィリッパ・デューク・スカイラー(Philippa Duke Schuyler、[?ska?l?r]
、1931年8月2日 - 1967年5月9日)は、アメリカ合衆国のピアニスト、作曲家、ジャーナリストである。黒人ジャーナリストジョージ・スカイラーと白人の資産家の遺産相続人ジョゼフィーヌ・スカイラーの間に生まれ、その才能と知性、混血であること、そして母親の奇抜な育て方によって、1930年代に有名になった。
「神童」「アメリカ黒人のシャーリー・テンプル」[1]と称された彼女は、4歳の頃には公の場でリサイタルやラジオ放送を行う著名なピアニストとなっていた。8歳のときには、ニューヨーク万国博覧会で2回のピアノリサイタルを行った。カーネギーホールで開催されたニューヨーク・フィルハーモニック・ヤング・ピープルズ・コンサートなど、様々な音楽コンクールで優勝した。また、11歳で全米作曲家・指揮者協会の最年少の会員になった。しかし、年齢を重ねるごとに人種差別を受けるようになった。後に父と同じジャーナリストとなったが、1967年に南ベトナムでのヘリコプターの墜落事故で亡くなった。 フィリッパ・デューク・スカイラーは、1931年8月2日にニューヨーク・ハーレムで生まれた。父ジョージ・スカイラーは、黒人の著名なエッセイスト・ジャーナリストである。母ジョゼフィーヌ・スカイラー(旧姓コグデル)は、テキサス州出身のリベラルな白人で資産家の遺産相続人で、奴隷所有者の孫であり、マック・セネットの映画会社のキャンペーンガールセネット水着美人
生涯
若年期
フィリッパを産む3年前から、母ジョゼフィーヌは自然食品や生のものだけを食べ、肉類を避けることで、「優れた」子供を産むために体と心を整え体内を浄化していた[3]。ジョゼフィーヌは、天才的な才能は生の食べ物だけで育つと信じており、フィリッパはニューヨークのアパートで、生のニンジン、エンドウ豆、ヤムイモ、および生肉を主とした食事で育てられた。また、お菓子の代わりに肝油とレモンスライスを毎日食べさせられていた。ジョゼフィーヌは、「旅行に行くと、フィリッパと私はウェイターを驚かせます。ほとんどのウェイターは、生肉を持って来てもらう前に、議論しなければならないのよ。小さな女の子が生肉を食べているのを見るのは珍しいことだと思うわ」と語っている[4]。
1933年、『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン(英語版)』紙の記者は、彼女を「ニグロ・ベイビー」と呼んだ。スカイラーは、19か月でアルファベットを知り、2歳で読み書きができるようになったと伝えられている。4歳のときには、シューマンやモーツァルトの曲を演奏できるようになり、自分で作曲もしていたという[5][6]。6歳の時の知能指数は185だった[7]。 母ジョゼフィーヌは、過激なステージママであり、フィリッパをあらゆる音楽コンクールに参加させようとした[5]。1936年6月、全米ピアノ教師ギルドが主催する年次大会で、10曲のオリジナル曲を演奏し、4歳にして初めて金賞を受賞した[8][9]。カーネギーホールで開催されるニューヨーク・フィルハーモニック・ヤング・ピープルズ・コンサートでは、8回連続で入賞した後、出場を断られるようになった[10][7]。また、音楽教育連盟やニューヨーク市からも金賞を受賞している[10]。 スカイラーのピアノリサイタルやラジオ放送は、マスコミに大きく取り上げられた。ニューヨーク市長のフィオレロ・ラガーディアもスカイラーのファンの一人で、何度もスカイラーの家を訪問している。ニューヨーク万国博覧会において、ラガーディア市長は1940年6月19日を「フィリッパ・デューク・スカイラー・デー」とし、スカイラーは2回のリサイタルを行った[11][6]。 スカイラーが9歳のとき、『ザ・ニューヨーカー』誌の記者ジョセフ・ミッチェル
音楽のキャリア
思春期を迎える頃には、アメリカ国内だけでなく国外でも常にツアーを行っていた。15歳のとき、ピウス10世典礼音楽学校のスコラ・カントルム(聖歌学校)であるヤング・S・J神父記念高校を卒業した[13]。また、ルウィソーン・スタジアム(英語版)でニューヨーク・フィルハーモニックと共演した[5]。その後、マンハッタンビル大学(英語版)で勉強を続けた[14]。
スカイラーのピアニストとしての才能は広く認められていたが、多くの批評家は、スカイラーは勢いのある曲を得意としていると考えており、ニュアンスのある作品に取り組む際のスタイルを批判していた。スカイラーの演奏は高く評価され、アメリカの多くの子供たちのお手本となった。しかし、両親が娘の人生とキャリアを記録したスクラップ帳を見せられたことで、スカイラーの心に暗い影が投げかけられた。そのスクラップ帳には、両親が娘に対する信念や抱負を語った新聞記事の切り抜きが多数掲載されていた。自分が「遺伝子実験」のために生まれ、育てられたという事実は、ピアニストとしての幸せを感じさせた多くの幻想を打ち砕いた[15]。
その後、スカイラーは、アメリカ国内で演奏する際にさらされる人種的・性別的な偏見に幻滅して、音楽活動の多くをアメリカ国外で行うようになった。スカイラーは、混血の人々が多く住むラテンアメリカに逃れた。これは、ラテンアメリカ、カリブ、アジア、アフリカ、ヨーロッパを旅し演奏するという、一種の「亡命」だった[5][16][17]。