フィリス・ホイートリー
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フィリス・ホイートリー
「フィリス・ホイートリーの肖像」(伝シピオ・ムーアヘッド作)
誕生1753年頃
西アフリカ
(おそらくガンビアセネガル
死没1784年12月5日(1784-12-05)(31歳)
アメリカ、マサチューセッツ州ボストン
職業詩人
言語英語
活動期間アメリカ独立戦争期
代表作Poems on Various Subjects, Religious and Moral (1773)
配偶者ジョン・ピーターズ
子供3
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フィリス・ホイートリー(Phillis Wheatley[1], 1753年頃 - 1784年12月5日)はアメリカの詩人で、アフリカ系アメリカ人女性として初めて詩集を出版した人物である[2]西アフリカ生まれで、7歳か8歳の時に奴隷として売られ、北アメリカに連れ出された。ボストンのホイートリー家に買われ、一家から読み書きを習い、才能を見いだされて詩作をするようになった。

1773年に主人の息子とロンドンに旅をした時、自作を刊行すべく、フィリスはさまざまな著名人と会ってパトロンになってもらった。ロンドンでフィリスの詩集であるPoems on Various Subjects, Religious and Moralが1773年9月1日に刊行され、イングランドとアメリカの植民地両方で名声を博した[3]。数年後、アフリカ系アメリカ人の詩人ジュピター・ハモンは自作の詩でフィリスを称えている。

フィリスは自作の刊行後、ホイートリー家から解放され、奴隷ではなくなった[4]。1778年に結婚した。生まれた子供のうち2人は幼いうちに亡くなった。1784年に夫が負債で投獄された後、ホイートリーは貧窮のうちに労働に追われ、病気で亡くなった。最後に残っていた幼い息子もその直後に亡くなった。
生い立ちフィリス・ホイートリーが通っていた教会であるオールド・サウス集会場[5]

生まれた日時や場所についての記録は残っていないが、研究者によると、フィリス・ホイートリーは1753年に西アフリカ、おそらくは現在のガンビアセネガルあたりで生まれた可能性が高い[6]。地域の首長が地元にやって来た商人にフィリスを売り、その商人はフィリス号という船でこの少女を1761年7月11日にマサチューセッツ州ボストンにあるイギリスの植民地に連れてきた[7][8]。船はティモシー・フィッチのもので、船長はピーター・グウィンだった[8]

フィリスはボストンの富裕な商人であるジョン・ホイートリーに買い取られて読み書きを教わり、才能を見いだされて文学や古典を学ぶようになった[9]。キリスト教の信仰にも関心があり、11歳の時にはモヒガン族出身の聖職者であるサムソン・オッカム(英語版)に手紙を出し、友人になっている[10]。やがて詩を書くようになり、14歳の時には初めての詩To the University of Cambridge, in New Englandを書いた[11][12]。フィリスが詩を書くにあたっては、アレキサンダー・ポープジョン・ミルトンホメロスホラティウスウェルギリウスなどを学んだことが影響を与えていた[13]
詩人として

1768年、ホイートリーは"To the King's Most Excellent Majesty"を書き、ジョージ3世1765年印紙法を撤回したことを称えた[4]。フィリスはアメリカ合衆国の独立を支持するようになっていった[14]。1770年にはフィリスは福音主義の立役者である伝道者ジョージ・ホウィットフィールドの死をいたむ挽歌“An Elegiac Poem, on the Death of the Celebrated Divine George Whitefield”を書き、これは大評判になった[14]

映像外部リンク

"On Being Brought from Africa To America by Phillis Wheatley; Narrated by Teyuna T Darris", 0:47, July 8, 2015, GoodPoetry.org.[15]

植民地に住む多くの人々は、アフリカからやってきた奴隷が優れた詩をものすということが信じられず、フィリスは1772年に自らが詩を書いたことを証明するため法廷に出て自分を弁護せねばならなくなった[16][17]

1773年、20歳の時、フィリスはホイートリー家の息子であるナサニエルに同伴してロンドンに行ったが、これはフィリスの健康のためでもあり、またジョンの妻スザンナがイギリスのほうがフィリスが詩を刊行できるチャンスが得られるだろうと考えたからでもあった[18]。フィリスはロンドン市長をはじめとする様々な重要人物に会った[19]。ハンティンドン伯爵夫人セリナ・ヘイスティングスがフィリスの才能に目をつけて詩集のパトロンとなり、1773年の夏にセリナへの献辞とともに詩集Poems on Various Subjects, Religious and Moral by Phillis Wheatley, Negro Servant to Mr. John Wheatley, of Boston, in New Englandが刊行された[20]。セリナが病気だったため、直接フィリスと会うことはできなかった[21]。2人の間に取り交わされた書簡が残っている[20]

スザンナ・ホイートリーが病気になったため、フィリスは詩集が刊行される前にボストンに帰国することとなった[19]。詩集が刊行された後、フィリスはホイートリー家から解放され、奴隷の身分ではなくなった[14]

フィリスの詩集Poems on Various Subjects, Religious and Moralは1816年までに11版が刊行された[22]。1773年の『ロンドン・マガジン』ではこの詩集がとりあげられ、「驚くべき天才の作品というわけではない」が「若く、教育を受けていないアフリカ人」の作品としては注目すべきものだという批評が掲載された[23]ジョン・ホイートリーの墓。

詩作のみならず、フィリスは書簡などを通じて自らの意見を書き残しており、他の知識人との交流もあった[24]。1774年、フィリスは知人であったサムソン・オッカムへの手紙で、アメリカにおいては奴隷にも生まれながらに人間としての権利が与えられるべきだというオッカムの考えを賞賛している[10]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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