フィラレート_(キエフ総主教)
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フィラレート
キエフと全ルーシ=ウクライナの総主教

教会ウクライナ正教会・キエフ総主教庁ウクライナ正教会
主教区キエフ
着座1995年10月22日
離任2018年12月15日
前任ヴォロドィームィル
後任エピファニー
ウクライナ正教会府主教
個人情報
本名ムィハイーロ・アントーノヴィチ・デヌィセーンコ
出生 (1929-01-23) 1929年1月23日(95歳)
ソビエト連邦ウクライナドネツィク州アムウローシイウカ地区ブラホダートネ村
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キエフ総主教フィラレート(ウクライナ語: Ф?ларет;1929年1月23日 - )は、ウクライナの最大正教会組織であったウクライナ正教会・キエフ総主教庁首座主教である。1995年10月に着座した。公式称号は「キエフと全ルーシウクライナ総主教」。俗名は、ムィハーイロ・アントーノヴィチ・デヌィセーンコ[1]1992年までロシア正教会府主教2018年12月15日にウクライナ正教会・キエフ総主教庁とウクライナ独立正教会などが統合し、新生「ウクライナ正教会 (2018年設立)」が発足し、新首座主教としてエピファニー府主教が選任されたことに伴い、総主教職を離任し、新生ウクライナ正教会の「名誉総主教」とされた[2]
経歴

ムィハーイロ・デヌィセーンコは、ウクライナ東部のドネツィク州アムウローシイウカ地区(Амврос??вський район)のブラホダートネ村(Благодатне)の労働者の家庭に生まれた。 オデッサ神学校 とモスクワ神学大学で神学教育を受け、後者においては 当時のモスクワ総主教アレクシイ1世と近しい関係となった。1950年、修道誓願を立てて修道名フィラレート(Филарет)を授かった。1950年1月には修道輔祭叙聖され、1951年6月には修道司祭に叙聖された。

卒業後、モスクワ神学大学にとどまり1952年から教授として教鞭をとり、神学大学監督の上級補佐を務めた。1956年、サラトフの神学校の監督に任命され、典院に昇叙(しょうじょ)された。1957年にはキエフ神学校の監督に任命され、1958年7月には掌院に昇叙され、さらに神学校の校長に任じられた。
ロシア正教会の高位聖職者

1960年から、事実上、ウクライナにおけるロシア正教会の総主教代理の任にあたり、キエフにある総主教代理の母大聖堂にあたる聖ヴォロディームィル大聖堂に奉職した。

1961年、フィラレートはロシア正教会の命によりアレクサンドリア総主教庁へ使節として赴いた。1962年1月、フィラレートは、レニングラード(現サンクトペテルブルク)の主教輔佐に選立され、同年2月には、レニングラードで府主教ピーメン(Патриарх Пимен;のちモスクワ総主教となる)と他の主教達により、主教に叙聖された。フィラレートは、ロシア正教会の外交的仕事をいくつか任され、1962年から1964年まで、フィラレートはロシア正教会の幾つかの渉外関係に従事し、ロシア正教会のウィーンおよびオーストリアの主教として奉職した。1964年にはモスクワに戻って、ドミートロフの主教、およびモスクワ神学大学と神学校の学長となった。

1966年には大主教となり、その後ほどなくしてキエフとハールィチ府主教となった。このことによりフィラレートがロシア正教会で最も影響力のある主教品になると、キエフ府主教庁はより重要なものと看做されるようになった。この時、フィラレートは、ロシア正教会における最高組織でありモスクワ総主教の選出にあたる、ロシア正教会聖シノドの終身会員になっている。フィラレートが、この150年間で民族的なウクライナ人として初めてキエフ府主教の地位に着いた事は特筆に値する。

ウクライナにおけるロシア正教会の指導者として、フィラレートは、ロシア正教会と協調することを拒否するウクライナの教会、ウクライナ東方カトリック教会およびウクライナ独立正教会への締め付けを公然と支持した。

モスクワ総主教ピーメン1世の健康状態が悪化するにともない、フィラレートは1988年に行われた キリスト教受洗千年祭(ロシア正教千年祭)の準備と祝典挙行を直接取り仕切った。この祝典は、ソビエト連邦と教会の関係見直しの契機となり、ロシア正教会にソ連政府から多くの教会建造物が返還されることともなった。

1990年5月3日にピーメン総主教が永眠すると、フィラレートは広く一般から、ロシア正教会の次期モスクワ総主教選挙における最有力候補と目された。とりわけ、フィラレートが総主教代行となったため、この感は強まった。しかし、1990年6月6日、ロシア正教会の地方公会は、レニングラードとノヴゴロドの府主教であるアレクシイ(俗名アレクセイ・リディゲル)を選び、彼がアレクシイ2世としてモスクワ総主教に着座した。

1990年10月27日、キエフの聖ソフィア大聖堂でアレクシイ2世総主教はフィラレート府主教に自治独立を認めるトモスを渡し(ただしこのトモスは 自治正教会独立正教会のどちらの言葉も用いていない)、これまで「キエフ府主教」であったフィラレートを「キエフと全ルーシ・ウクライナの府主教」に任じた。
キエフ総主教庁の創設

1991年8月24日、ウクライナがソビエト連邦からの独立を宣言すると、ウクライナ正教会の教会会議(a national Sobor)が11月1日から3日にかけて行われた。この教会会議では、投票権を委任されたメンバー、(これにはウクライナ正教会全ての主教、聖職者に加えて各教区の信者代表、および各修道院神学校の代表者、認められた修道士などが含まれていた)は満場一致で、これ以降、ウクライナ正教会は独立正教会として活動するという決議を採択した。またこれとは別に、フィラレート府主教が首座主教となることを希望するという決議も満場一致で支持された。

1992年3月から4月にかけて、ロシア正教会の主教会議がたった一つの議題のために招集された。ウクライナ正教会が4か月前に通過させた教会会議の決議をどう考えるべきかについて、である。しかしこの議題自体は議論されることなく、フィラレートに辞任要求が突きつけられた。会議2日目、フィラレートはウクライナ正教会シノドに対して府主教辞任を申し出ることに同意し、ロシア正教会シノドは以下の決議を採択した:

「主教会議は、教会の平安のため、次回のウクライナ正教会主教会議に於いて、フィラレート府主教がウクライナ首座主教の任を解かれるよう自ら辞任願を出すという、キエフおよび全ルーシ・ウクライナ府主教フィラレート聖下による声明を評価する。


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