この項目では、アメリカ合衆国ペンシルベニア州の都市について説明しています。その他の用途については「フィラデルフィア (曖昧さ回避)」をご覧ください。
フィラデルフィア市
City of Philadelphia
市旗市章
愛称 : 兄弟愛の街
フィリー
クエーカー・シティー
あなたを愛する街
標語 : "Philadelphia maneto (兄弟愛)"
位置
ペンシルベニア州内における位置
フィラデルフィア(英語: Philadelphia、漢字/和名:費拉特費または費府)は、アメリカ合衆国のペンシルベニア州南東部にある同州最大の都市。ニューヨーク市とワシントン D.C. の中間に位置し、東海岸で2番目、全米で6番目の人口を持つ北アメリカ有数の世界都市。 1682年に人類史上初の信仰の自由が保障された街として築かれる。1776年 合衆国建国の父がこの地に集結し全会一致で独立宣言を採決、アメリカ誕生の地となる。ワシントンD.C.建設中の10年間、合衆国首都として君臨。以降は大陸の北東部、南部、中西部を結ぶ「キーストーン(礎石)回廊」の始点、世界最大の淡水港、豊かな周辺農業地帯、高度な技術を備えた製造業、極めて高い教育水準の強みを活かし、アメリカ屈指の港湾・農業・商工業の都市として合衆国の繁栄を担ってきている。 現在、全米第二規模のヘルスケア産業(グラクソ・スミスクラインなど)、世界有数のビデオ映像技術と通信サービス産業(コムキャストなど)の集積地として発展を続けている。ペンシルベニア大学、カーティス音楽院などを擁する学術都市であり、その学生数は市内に約12万人・都市圏全体で約30万人と全米最多である。 2015年、アメリカで最初の世界遺産都市(街まるごと世界遺産の対象)に登録される。自由の鐘や独立記念館など国家誕生シンボルの建物、加えて各宗教・宗派・民族のそれぞれが米国で初めて建設した数々の教会、合衆国最初の銀行・造幣局・公立病院・メディカルスクール・ビジネススクール・美術大学・電子計算機、ベンジャミン・フランクリンが凧を用いて電気を捉えた跡地の碑、フリーメーソンの総本山寺院、野口英世像など、膨大な数の国定記念建造物と史跡が市内に点在する。 印象派作品コレクションの宝庫(フィラデルフィア美術館、バーンズ財団美術館など合計5,000点以上)、屋外壁画作品の都(4,000点以上)、フィラデルフィア・ソウル発祥の地、米国最古のオペラハウス、フィラデルフィア管弦楽団など第一級の音楽団体を持つ世界有数の文化芸術都市として知られる。市内のフェアマウントパーク 1682年10月27日にクエーカー教徒のウィリアム・ペンが同志とアメリカに渡来し、この地に居住区を建設したのが市の起源である。ペンはこの地を古代ギリシャ語で「兄弟愛の市」を意味する(Φιλαδ?λφεια、フィロス=愛、アデルフォス=兄弟、ア=都市名につく語尾形)「フィラデルフィア」と命名した。こうして、フィラデルフィアはペンシルベニア植民地の首都として成立した。独立記念館 18世紀に入ってフィラデルフィアは交易の要地となり、目覚ましい発展を遂げる。当初は生活基盤は貧弱であったが、ベンジャミン・フランクリンの尽力によって大きく改善されることとなる。1750年代までには、フィラデルフィアはボストンを上回る北アメリカ最大の都市となり、イギリスの領土内でもロンドンに次ぐ第2位の都市だった(1835年までにニューヨークがフィラデルフィアを上回ることになる)。このためアメリカ合衆国の独立期には、この地はアメリカ合衆国建国の父と後に呼ばれる人たちの集う中心地となった。独立戦争時に州議事堂(現在のアメリカ独立記念館)で大陸会議や独立宣言の起草が行われた。また1790年にアメリカ合衆国の首都がニューヨーク市からフィラデルフィアに移ってくると、新都ワシントン特別区の建設が一段落する1800年までの10年間はアメリカ合衆国の首都であった。 1793年には市内で黄熱病が流行し、一時は放置された遺体が山積みとなる状況に陥った[2]。禁酒法時代には、かつての輝かしい歴史を有する街から一転して、一時シカゴに次ぐマフィアが暗躍する都市となった。19世紀以来フィラデルフィアは商業や海運の都市である。有名な大学(ペンシルベニア大学、ドレクセル大学、テンプル大学、トーマス・ジェファーソン大学、ラサール大学
概要
歴史