フィニアンの虹
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フィニアンの虹
Finian's Rainbow
監督
フランシス・フォード・コッポラ
脚本E・Y・ハーバーグ
フレッド・セイディ
製作ジョセフ・ランドン
出演者フレッド・アステア
音楽バートン・レイン
撮影フィリップ・H・ラスロップ
編集メルヴィン・シャピロ
製作会社ワーナー・ブラザース・セブンアーツ
公開 1968年10月9日
1969年3月15日
上映時間141分
製作国 アメリカ合衆国
言語英語
製作費$3,500,000
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『フィニアンの虹』(フィニアンのにじ、Finian's Rainbow)は、1947年初演のブロードウェイミュージカル。およびそれを原作とする1968年アメリカ映画
舞台

1947年1月にブロードウェイ初演、725回のロングラン公演を記録。これは『マイ・フェア・レディ』に破られるまでのブロードウェイの最多ロングラン記録である。
映画

舞台からおおよそ22年を経た1968年8月に公開。

プロデューサーのジョセフ・ランドンは若い世代の感覚で映画を製作しようと考え、当時28歳のフランシス・フォード・コッポラを監督に抜擢し、脚本や振付といった周囲のスタッフをベテランで固めた。さらにはコッポラを手伝ったスタッフの中に大学生時代のジョージ・ルーカスがいた。

主要なキャストにおいてもペトゥラ・クラークトミー・スティールといった人気スターや若手を揃えたうえで、要となる役にフレッド・アステアキーナン・ウィンといった大ベテランを起用した。当時68歳のアステアにとっては十余年ぶりのミュージカル映画出演にして、最後のミュージカル映画出演となった。

コッポラは元々ブロードウェイの音楽一家の生まれで、幼い頃から『フィニアン』の曲にも親しんでいた。あまりに映画が長くなった為に削られた1曲を除き、全ての曲が映画でも使われ、オリジナルに敬意を払った編曲がなされている。一方で短いカットの連続で見せるミュージカルシーンは、リチャード・レスターの監督するビートルズ映画の影響を強く受けている。

20余年前の時事問題を風刺した劇であるが故に、古めかしくなった脚本には、かなり苦心して手が加えられたという。コッポラは全編ロケーション撮影による活気あるミュージカルを作る事を希望していたが、与えられた予算が低かったため実現せず、『キャメロット』(1967)の森のセットを流用した撮影などが行われた。また振付けるダンスが時代に合わないと判断されたハーミズ・パンは中途で解雇され、残りは無名の振付師と、時に監督自らが振付をおこなった。

本来作家主義志向のコッポラは、初のメジャー作の監督で経験するしがらみの強い映画作りに悩まされ、最後にはプロデューサーに編集を一任して、ルーカスと共に次回作のロードムービー雨のなかの女』の撮影に出かけてしまった。公開後に劇場で初めて完成ヴァージョンを見たコッポラは、舞台劇調が強く冗長な内容になっている事を恥じ、以後自分の映画の編集作業には必ず立ち会うようになったという。
日本での公開

日本では1969年3月15日に公開され、弘田三枝子が唄う「虹に瞳を」が主題歌として用いられた[1]。B面曲の映画挿入歌「グロッガ・モーラの様子はいかが(英語版)」と共にのびやかに歌唱しているが、本作が日本では期待の割にはあまりヒットせず、主題歌の売上げも低迷に終わっている[1]
スタッフ

製作:ジョセフ・ランドン


監督:フランシス・フォード・コッポラ

原作・脚色:E・Y・ハーバーグ フレッド・セイディ

撮影:フィリップ・H・ラスロップ

音楽:バートン・レイン

キャスト

フィニアン・マクロナーガン:
フレッド・アステア


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