フィニアス・P・ゲージPhineas P. Gage
ゲージの肖像写真(2010年に確認)。彼に突き刺さった鉄の棒とともに[脚注 1]。
生誕1823年7月9日 (日付は不確定)
アメリカ合衆国
ニューハンプシャー州グラフトン郡
死没1860年5月21日(1860-05-21)(36歳)
アメリカ合衆国
サンフランシスコまたはその近郊
墓地Cypress Lawn Cem.
フィニアス・P.ゲージ(Phineas P. Gage、1823 - 1860)[脚注 2]は、米国の鉄道建築技術者の職長である。今日では、大きな鉄の棒が頭を完全に突き抜けて彼の左前頭葉の大部分を破損するという事故に見舞われながらも生還したこと、またその損傷が彼の友人たちをして「もはやゲージではない」と言わしめるほどの人格と行動の根本的な変化を及ぼしたことによって知られている。
このフィニアス・ゲージの事故は、長年「アメリカの鉄梃事件 (the American Crowbar Case)」とよばれ、一時は「他のいかなる事件よりも我々の興味をそそり、予後というものの価値を落とし、生理学の理論を覆しまでした事件」[2]とまで言われた事件であり、19世紀当時の精神と脳とに関する議論、とりわけ脳内の機能分化に関する議論に影響を及ぼした[3]。またこの事件は、脳の特定の部位への損傷が人格に影響を及ぼしうることを示唆したおそらく初めての事例である。
ゲージは、神経学、精神医学、およびこれらの関連分野の課程では必ず登場する名前であり、書籍や論文でもしばしば言及されている。また、音楽グループの名称などにも使われていることがある[4]。 知名度は高いものの、事件の内容については詳しく知られているわけではなく、このため長年にわたって、脳と精神に関する互いに矛盾した様々な理論の裏付けとして引用されるという状態になっている。出版物を対象とした調査では、ゲージについての現代の科学的な発表でさえも、過度に誇張されたり既知の事実に明らかに反していたりと、激しく歪曲させられていることが多いことがわかった。
ダゲレオタイプの肖像写真が、2009年にゲージのものであると確認された (下部参照)。これは、彼を傷つけた鉄の突き棒を手にしており、「凛々しい…身だしなみよく、自信ありげで、堂々としてすら見える」とされ、旧来のイメージと異なる。ある研究者は、この姿を「社会復帰」仮説と矛盾がないものと指摘している。この仮説では、ゲージの精神変化の最も深刻な部分は事故後ほんのしばらく続いただけであって、後年の彼は以前考えられていたよりももっと機能的に行動でき、社会的にもずっと適応できていたとされている。もう一枚の肖像写真(右)が2010年に発見された。 1848年9月13日、25歳のゲージは、作業員の職長として、バーモント州の町カヴェンディッシュ (en
ゲージの事故
ゲージの事故を「アメリカの鉄梃事件」とした19世紀当時の文献は内容を明確にする必要がある。ゲージの突き棒には鉄梃(バール)につきものの湾曲部や鉤がなく、むしろただの円柱状であり、「円くて、使用によってわりと滑らかになっていた[6]」。先に突き刺さった側の端は尖っていて、12インチにわたり先が細くなっていた。この形状のため被害者は命を永らえたのだと思われる。この鉄の棒は他では見られないものであり、持ち主の好みを満たすように近傍の鍛冶屋で作られたものである。[脚注 4]
重量が6kgあったこの”突然図々しくすっ飛んできた客”[脚注 5]は、血液と脳にまみれて25mほど先に落ちたと言われている。
驚くべきことに、ゲージは数分もたたないうちに口を利き、ほとんど人の手も借りずに歩き、街にある自宅への1.2kmを荷車に乗っているあいだ背筋を起こしたまま座っていた。最初に彼のところへ到着した医師はエドワード・H.ウィリアムズ博士であった。私は馬車から降りるより先に頭の傷口に気がついた。脳の血管の拍動がはっきり見て取れた。ゲージ氏は、私がこの傷口を調べている間、周囲の人に自分が怪我を負った時の様子を語っていた。私はそのときゲージ氏の述べることを信じず、彼が騙されたのだと思った。ゲージ氏はその棒が頭を貫通したのだと言い張った。…ゲージ氏は立ち上がり嘔吐した。嘔吐しようと力んだため、ティーカップ半杯ほどの脳が押し出され、床にこぼれ落ちた[7]。
ジョン・マーティン・ハーロウ医師 (en)が1時間ほど後にこの症例の担当となった。こう評しても皆さんお許しくださるでしょうが、私の見せられた状態は、軍隊での外科処置に慣れていない者が見たら、まさにおぞましいと言えるものでした。しかし患者は、最も英雄的な断固さをもってその苦痛に耐えていました。彼は私が誰だかすぐ認識し、怪我があまりひどくないと良いがと言いました。彼の意識は完全に清明であるようでしたが、出血のため体力を消耗していました。脈拍は60で整。彼の身体も、横になっていたベッドも、文字通り一塊の血糊となっていました[8]。
ハーロウの熟達した診療にも関わらず、ゲージの回復には時間がかかり困難を伴った。脳圧が高かったため[脚注 6]ゲージは9月23日から10月3日までなかば昏睡状態にあり、「話しかけられない限りほとんど口を利かず、返事も1シラブルのみである。友人や看護の者は彼が数時間のうちに亡くなるであろうと予想しており、棺と死装束を準備している。」[9]
しかし、10月7日にはゲージは「起き上がることに成功し、一歩歩いて椅子にたどり着いた」。一か月後には彼は「階段の上り下りができ、家の周りを歩いたり、ベランダに出たりすることができた」。そしてハーロウが一週間留守にしている間ゲージは「日曜以外は毎日通りに出ていた」。彼の希望は、ニューハンプシャーの家族のもとへ帰って「友人らに煩わされずにすむこと…足を濡らして寒気がした」。彼はすぐに熱を出したが、11月半ばまでには「あらゆる点で以前より良好。…再び家の周りを歩いている。頭は全く痛くないとのこと。」この時点でのハーロウの予見は以下のようであった。「ゲージは回復の方向に向かっているようである、ただし制御できるならばだが。」[10]
その後の人生と旅行 岩の間の切土を通る軌道(バーモント州カヴェンディッシュの南方)。ゲージはこの切土か近傍の同じような切土を造るために爆薬を仕掛けていて事故に遭った。[脚注 7]
11月25日までには、ゲージはニューハンプシャー州レバノンの実家へ帰れるくらい健康を取り戻していた。12月の末には「精神的にも身体的にもすっかり良くなり、実家へ馬で向かった」。1849年4月にはカヴェンディッシュへ戻ってきてハーロウを訪問している。このときハーロウは、ゲージの左眼の視力の消失と眼瞼下垂、額の大きな傷痕、および「頭頂部には…深い陥凹がある。長さ2インチ、幅は1インチから1インチ半で、直下に脳血管の拍動を触れる。顔面の左半側に部分麻痺」があることに注目している。これらの症状にもかかわらず、「彼の身体の健康状態は良好であり、私は彼が回復したと認めるのにやぶさかではない。頭は痛まないが、説明しがたい変てこな感覚がすると述べている」[11]。
ハーロウによると、ゲージは元の鉄道敷設の仕事に戻れなかったため、ニューヨーク市のバーナム米国博物館 (en:Barnum's American Museum[脚注 8])にしばらくの間顔を出していたとされるが、これを裏付ける独立した情報はない。しかしながら、近年、ゲージが”もっと大きなニューイングランドの街で”大衆の前に姿を現したというハーロウの発言を支持するような証拠が浮かび上がってきた[12](ゲージの失業と公衆の面前への登場については下の文章も参照)。