フィデル・カストロ
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の)はカストロ、第二姓(母方の)はルスです。

フィデル・カストロ
Fidel Castro


キューバ共産党
初代 中央委員会第一書記
任期1965年10月3日2011年4月19日
第二書記ラウル・カストロ
キューバ共和国
初代 国家評議会議長閣僚評議会議長
任期1976年12月3日2008年2月24日
第一副議長ラウル・カストロ
キューバ共和国
第14代 首相
任期1959年2月16日1976年12月2日
大統領オスバルド・ドルティコス・トラド
非同盟諸国首脳会議
事務総長
任期1979年9月10日1983年3月6日
2006年9月16日 - 2008年2月24日

出生1926年8月13日
 キューバ ビラン
死去 (2016-11-25) 2016年11月25日(90歳没)
 キューバ ハバナ
政党キューバ共産党
配偶者ミルタ・ディアス・バラルト(1948年 - 1955年
ダリア・ソト・デル・バジュ(1980年 - 2016年、死別)
宗教無神論
署名

フィデル・アレハンドロ・カストロ・ルス(Fidel Alejandro Castro Ruz ( audio), 1926年8月13日 - 2016年11月25日[1])は、キューバ政治家革命家軍人弁護士(キューバ)。

共産主義者で、1959年キューバ革命アメリカ合衆国の事実上の傀儡政権であったフルヘンシオ・バティスタ政権を武力で倒し、キューバを社会主義国家に変えた。革命によって同国の最高指導者となり、首相に就任。1965年から2011年までキューバ共産党中央委員会第一書記を、1976年より2008年まで国家評議会議長(国家元首)兼閣僚評議会議長(首相)を務めた。後述の通り、キューバ独立の英雄という評価と独裁者としての批判との賛否がある。

国家元首として在職中、日本国内においては「カストロ議長」と呼称されることが多かった[2]。なお、本項では本人を指す場合は原則として「フィデル」の表記を用いる。これは、彼の弟にして後継者であるラウル・カストロの存在があるためで、ラウル・カストロについても本項では原則として「ラウル」の表記を用いる。
経歴
大学卒業まで

1926年、マヤリ近郊のビランにて、スペインガリシア人移民で裕福な農場主アンヘル・カストロ・イ・アルヒスの息子として生まれる。当初はマルカネにある公立のグラマースクールに入ったが、ハバナの私立小学校コレヒオ・ベレンを始めとするイエズス会の学校で教育を受け、野球に熱中した。1944年には最優秀高校スポーツ選手に選ばれ、1945年にはハバナ大学に入学して法律を学んだ。

大学では政治活動に参加、革命反乱同盟 (UTR) に加入する。1948年ラテンアメリカの学生運動の連合を図り、コロンビアを訪れたが、次期大統領候補だった自由党の指導者ホルヘ・エリエセル・ガイタンとの会談を予定していたその日にガイタンが暗殺され、コロンビアはボゴタ暴動に突入した。フィデルも暴動に参加し、コロンビア軍との戦闘に加わった[3]1950年に大学を卒業した。
弁護士時代

卒業後、1950年から1952年の間に弁護士として貧困者のために活動。その後フィデルはオルトドクソ党(正統党)から1952年の議会選挙に立候補したが、将軍フルヘンシオ・バティスタ率いるクーデターによってカルロス・プリオ・ソカラスの政府が倒され、選挙の結果は無効となった。その後、フィデルは憲法裁判所にバティスタを告発した。請願は拒絶され、フィデルは裁判所を糾弾した。
武装闘争詳細は「7月26日運動」を参照
モンカダ襲撃7月26日運動(M-26-J)のフィデル(左端)とゲバラ(右端)

その後フィデルは武装勢力を組織し、1953年7月26日に、130名の仲間とともにモンカダ兵営サンティアーゴ・デ・クーバ)に対する攻撃を行った。攻撃者の80人以上が死に、フィデルは逮捕された。裁判ではカトリック司教の仲裁で死刑は免れたが、懲役15年が宣告され、投獄される。獄中ではホセ・マルティなどを愛読、「歴史は私に無罪を宣告するだろう」を発刊する。1955年5月に恩赦によって釈放され、2カ月後にメキシコ亡命、後にアメリカに移住して活動を続けた。メキシコ亡命時代にはバティスタの意向を受けたメキシコ警察によって逮捕されたが、フィデルを見込んだメキシコ革命の大成者だった元大統領ラサロ・カルデナスの歎願によって釈放された[4]
「グランマ号」

1956年12月2日、60フィートのプレジャーヨット、グランマ号でトゥスパン(ベラクルス州, メキシコ)から他の「7月26日運動」のメンバー、総勢82名とともに、マンサニヨ(グランマ州, キューバ)へ上陸。その時点ではフィデルはまだ共産主義者あるいは社会主義者ではなかった。キューバ革命後の1959年後半にフィデルはアメリカの新聞に「どんな産業も国有化する意図はなかった」と語った。フィデルが明確にソビエト連邦を中心とする東側諸国への接近を企図するのは、1961年4月のピッグス湾事件の後である。

しかし日中の上陸であったためにキューバ空軍により攻撃され、激しい戦闘で当初の82人のうちの18人だけが生き残りマエストラ山脈へ退き、そこからバティスタ政府とのゲリラ戦を再開した。生存者の中には革命後に閣僚となるチェ・ゲバラ、ラウル、またカミロ・シエンフェゴスが含まれていた。フィデルの運動は民衆の支援を獲得し、800人以上の勢力に成長した。
勝利

1958年5月24日、バティスタはフィデルの軍に対して17の大隊を送り出した。数字上では圧倒されていたにもかかわらず、フィデルの軍隊は政府軍兵士の多くの軍務放棄によって、一連の勝利を成し遂げた。1959年1月1日、フィデルの軍隊は首都ハバナ近郊に迫り、バティスタと次期大統領カルロス・リベロ・アグエロ(英語版)は国外に亡命した。フィデルの軍はハバナを支配下に置き、キューバ革命が成就した。
最高指導者として

革命後、首相に就任したフィデルは、キューバ共産党による一党制を敷いた。共産党の党首である第一書記の地位にあったフィデルは、国家の最高指導者として君臨した。1976年からは国家評議会議長として正式に国家元首の地位に就いた。しかし他の社会主義政権の最高指導者に見られるような、自身の巨大な肖像写真や銅像を一切作らせていない。これは前政権の独裁者バティスタと同一視されるのを忌避していたためと言われている。
経済政策

革命直後はアメリカとも友好的な関係を維持しようと努力したが、フィデルを「容共的」と忌避したアメリカとの関係を見限ってソビエトと接近し、同時にユナイテッド・フルーツ(現:チキータ)などの大企業の農園やハバナに立ち並ぶカジノホテル(その多くがアメリカの政治家と密接な関係を持つマフィアの持ち物であった)などのアメリカ企業の資産の接収と国営化を推し進めたために、アメリカはキューバとの断交と禁輸措置を発動し、それに対抗するようにソビエトはサトウキビ石油バーター貿易(事実上の経済支援)などを通じてキューバ支援を行った。

その関係は1991年ソビエト崩壊まで続いたものの、ソビエト崩壊によって冷戦が終結したことでバーター貿易も経済支援もストップしたため近年は深刻な経済状態が続いており、その為にいかだ等を使用して経済亡命する事件が後を絶たず、カストロ兄弟のみならず国家全体の悩みの種となっている。この様な経済面での失政から、「革命家は年金をもらってまで生きるようなことはしない。わたしは地獄に落ち、そこでマルクスエンゲルスレーニンと出会うだろう。地獄の熱さなど、実現することのない理想を待ち続けた苦痛に較べれば何でもない」と語ったこともある[5]

なお、革命後に土地の国有化を推進し、その一環として実家の農園をも例外とせずに取り上げたために実母から絶縁された。娘を含めてカストロ体制を嫌うキューバ人の多くが亡命し、反カストロ派の海外における一大拠点となっているアメリカのマイアミに亡命している。
亡命者問題

1980年3月28日に、カストロ体制を嫌う亡命希望者を乗せたバスがハバナのペルー大使館の門を突破した。続く48時間に10,000人以上のキューバ人が大使館に逃げ込んだ。フィデルは4月20日にマリエルの港からボートで出国できることを発表する。亡命希望者たちはマリエルからボートで出国を始め、彼らは「自由小艦隊 freedom flotilla」として知られるようになる。アメリカ沿岸警備隊によると、9月26日にマリエルが閉鎖されるまで、124,776人のキューバ人が出国したとされる。
宗教政策

キューバはスペインの植民地だったこともあり、国民の大半はもともとキリスト教徒カトリック)であったが、社会主義革命を標榜するフィデルは頑なな無神論者であり、キリスト教会を取り壊し、教徒を矯正キャンプに入れるなどの宗教弾圧政策を実施した。ローマ教皇ヨハネ23世1962年1月3日にフィデルを破門した。これは1949年ピウス12世が発した法令によるものであったが、カトリック信徒たりつづけることを以前から放棄していたフィデルにとってこの破門は重要な出来事ではなく、カトリック教徒によるフィデルへの支援を妨害するために行われたと予想されたが、そうであったとする証拠はほとんど無い。

ただし、ヨハネ・パウロ2世とフィデルの関係は以前の教皇に比べれば若干良好であった。1992年にフィデルはキリスト教徒に対する融和策を導入している。ヨハネ・パウロ2世はアメリカによるキューバへの通商停止に対して「不正で、倫理的に承諾しがたい」と非難を行い、その後バチカンとフィデルの関係は改善する。フィデルは1996年11月にはバチカンを表敬訪問し、ヨハネ・パウロ2世に謁見。宗教弾圧政策を事実上放棄した。

1998年、ヨハネ・パウロ2世はキューバを訪問する。これはローマ教皇による初めてのキューバ訪問であった。教皇は訪問がキューバにおけるカトリック教会の建設促進が目的であったと強調し、政治的問題への関係を避けたが、カトリック学校の開設許可のために政府による教育規制の撤廃と、キューバ国内の病院で行われている妊娠中絶を批判した[6]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:113 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef