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やノートページでの議論にご協力ください。 ハンガリーの政党フィデス=ハンガリー市民同盟
Fidesz-Magyar Polgari Szovetseg
党のロゴ
党首オルバーン・ヴィクトル
成立年月日1988年3月30日
本部所在地ブダペスト
ハンガリー国会135 / 199 (68%)(2022年4月3日)
党員・党友数35,000
政治的思想・立場右派
親露(?2010年)[1]
「ハンガリー民族主義」[2][3]
欧州懐疑主義[4]
ポピュリズム[5]
キリスト教民主主義[6]
経済ナショナリズム[7]
反移民政策[8]
シンボルオレンジ色
国際組織国際民主同盟
中道民主主義インターナショナル
欧州人民党
公式サイトFidesz.hu
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フィデス=ハンガリー市民同盟(フィデス ハンガリーしみんどうめい、ハンガリー語: Fidesz-Magyar Polgari Szovetseg)は、1988年に設立されたハンガリーの政党[9]。略称はフィデス(Fidesz-MPSZ、Fidesz)。
旧名は青年民主同盟(Fiatal Demokratak Szovetsege、略称:フィデス、Fidesz)、フィデス=ハンガリー市民党(Fidesz-Magyar Polgari Part)。 1988年3月に大学の寄宿自主研究施設であるビボー・イシュトヴァーン・コレギウムで37名の若い法学者・経済学者・学生らにより青年民主同盟として結成された。結成直後、共産主義政権下で認められていない政治団体の結成であるとして、官憲により解散を迫られた。結成当時は入党資格を35歳以下の者に限定し、党首を置かず、6名からなる対外代表制度をとった。強硬な反共主義で知られ、6月16日のナジ・イムレ首相(1956年のハンガリー動乱で捕えられ1958年6月に処刑される)処刑記念日、10月23日のハンガリー動乱記念日での非合法集会、ルーマニアのチャウシェスク共産党政権によるハンガリー少数民族村の破壊抗議デモ、共産党政権によって進められたドナウ川景観地のダム建設反対運動、プラハの春へのソ連軍介入抗議デモ(プラハ)などに参加した。特に1989年6月にナジ元首相の葬儀において、幹部のオルバーン・ヴィクトルが、ソ連軍の駐留と、ハンガリー社会主義労働者党(共産党)による一党独裁を批判した演説は有名である。新政党や復活した歴史的政党が共産党との間で議会制民主主義への移行を議論した円卓会議では、オルバーンの他、フォドル・ガーボル 1990年以降のハンガリー民主フォーラム(MDF)らによる右派政権期には野党となったが、1990年9月の地方自治体選挙で躍進した。同年10月の大幅なガソリン値上げ発表に端を発するタクシー・トラック運転手らによるバリケード事件では、MDF政権の打倒を目指す最大野党自由民主同盟の姿勢とは一線を画した。その後も、対立するMDFと自由民主同盟の協調を訴えた。この与野党協調を訴える姿勢、若者による政党という新鮮さに加えて、共産党時代の旧共産党機関紙はじめ社会党支持メディアまでがフィデスを支持したことも手伝い、1993年まで国民の非常に高い支持を得た。1992年に自由主義インターナショナルに加盟した。 しかし、次期選挙に備えるため政党としての体制を構築していく過程で、1993年に35歳としていた入党年齢制限を廃止、党首制の導入を決定、オルバーンが党首に選出される中、自由民主同盟に近い立場にあったフォドルら数名の議員が離党し、一部は後に自由民主同盟に移った。フォドル派議員・党員の離党は、それまでフィデスを支持していた旧共産党系主要メディアが一挙にフィデス離れを起こすきっかけとなり、フィデスは大きく支持を下げた。 1994年議会選挙
歴史
結成と初の議会選挙(1988年-1990年)
野党時代(1990年-1998年)
その後、フィデスはKDNPの党内対立による分裂を受け、同党を吸収、他の右派政党との協力関係を結ぶなどして、右派の中心政党となった。
第1次オルバーン政権(1998年-2002年)