フィッティパルディ
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フィッティパルディ(コパスカー)創設者ウィルソン・フィッティパルディ
エマーソン・フィッティパルディ
参戦年度19751982
出走回数72 (コパスカー)
32 (フィッティパルディ)
コンストラクターズ
タイトル
0
ドライバーズタイトル0
優勝回数0
通算獲得ポイント32 (コパスカー)
12 (フィッティパルディ)
表彰台(3位以内)回数1 (コパスカー)
2 (フィッティパルディ)
ポールポジション0
ファステストラップ0
F1デビュー戦1975年アルゼンチンGP
初勝利?
最終勝利?
最終戦1982年イタリアGP
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フィッティパルディ (Fittipaldi) は、1975年から1982年までF1に参戦していたブラジルのレーシングチームである。F1史上唯一のブラジル国籍のコンストラクターであり、1974年に兄弟F1ドライバーのウィルソン・フィッティパルディエマーソン・フィッティパルディによって設立された。

コンストラクターとしてのエントリー名は、1979年まではタイトルスポンサーであるコパスカー(Copersucar、ポルトガル語の発音は「コペルスカル」)を用い、1980年から1982年にかけてはフィッティパルディを用いた。「コパスカー」時代もエントリー名以外では「フィッティパルディ」の名称を主に併記の形で用いたため、この時期のチームについては「コパスカー・フィッティパルディ」とも呼称する。
発足
参戦準備

ウィルソン・フィッティパルディは1972年にブラバムからF1への参戦を始めたが、翌1973年まで中団争いに甘んじ、同時にブラバムチームにおける待遇に不満を覚えてもいた。1973年末には弟でありやはり現役のF1ドライバーであったエマーソン(ただしウィルソンと異なり1972年にチャンピオンになり、1973年もチャンピオン争いをしていた)と相談し、ブラジル国籍のF1チームの創設を決意することとなる。“チーム・フィッティパルディ”製フォーミュラ・Vee車両「Fitti Ve」(エマーソン車)

こうした決断にいたる以前には、フィッティパルディ兄弟が1960年代にブラジル国内において輸入品に手を加えた自製のフォーミュラ・Veeカート販売の事業を手がけ、市販自動車のカスタムパーツ販売などの分野でも成功を収めていたという経緯があり、ヨーロッパではF2に参戦するかたわら所属チームであるバーダルチームの運営にも関与し、バーダル/フィッティパルディ連名で幾つかのレース用改造車両を手がけるなどしている(この当時の「チーム・フィッティパルディ」とF1コンストラクターの「フィッティパルディ」との間に直接的な繋がりはない)。

同時に、F1参戦を可能としたのは、戦闘力もあり入手も容易なコスワースDFVエンジンヒューランドギアボックスが存在するという当時のF1の時代背景も大きかった。そのため、ほぼ同時期に、やはり現役F1ドライバーのジョン・サーティースグラハム・ヒルによってサーティース(1970年設立)、ヒル(1975年)が設立されてもいる。

ウィルソンは1974年はF1のドライバーとして休養し、チームの設立準備に専念した。この間に、ブラジルの砂糖・アルコール製造と銅の産出及び製造のコングロマリットであるコパスカー社から資金援助を引き出すことに成功するとともに、不安材料であった風洞実験や車体製造にあたってはブラジルの国営の航空機メーカーであるエンブラエルの支援をも取り付けた。この間、マクラーレンに所属していた弟のエマーソンもチームのコンサルタントとして間接的に関わっている。
FD-01完成

F1開発の本場であるイギリスから遠く離れたブラジルで開発されたためもあってか、チーム初のF1カー「FD-01」はラジエーター(冷却器)の設置方法の違いなどから、エンジンカバーで車体後部を覆うなど、当時のDFVエンジン搭載車両の中ではやや独特の形状をまとった。「ブラジル初のF1カー」となったこのFD-01の初公開は、1974年10月16日に当時の大統領エルネスト・ガイゼル臨席の下、ブラジリアのブラジル上院議場で行われた。
参戦の歴史
コパスカー
1975年コパスカー・フィッティパルディFD-01

コンストラクター名はチームのメインスポンサーの名を取り「コパスカー」としてエントリーし、ウィルソン・フィッティパルディの1台のみによる参戦という形でF1デビューを飾った。

チームは困難なデビュー年を送ることとなるが、その兆候はデビュー戦アルゼンチンGPから現れた。アルゼンチンGPの決勝レースの12周目におけるクラッシュにより新車FD-01は修復不能となり、わずか1戦でその役目を終えた(皮肉にもこのレースはマクラーレンに所属するエマーソンが優勝している)。FD-01が使用不能となったため、以後のレースはFD-02、FD-03が使用されることになった。これらのシャシーはFD-01とは空力的に若干異なることを除けばほぼ同一であるため、記録上は「FD-01」として扱われることが多い。

FD-01(及びFD-02、FD-03)は戦闘力不足で、予選は20番手、決勝では最終戦アメリカGPで記録した10位が最高位という結果に終わった。予選最高位20位を得たオーストリアGPでは予選中にウィルソンが指の骨2本を折る怪我を負ったため、決勝を棄権するとともに、続くイタリアGPのみ地元イタリア人のアルトゥーロ・メルヅァリオにステアリングを譲るというハプニングがあった。


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