フィスク大学
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フィスク大学 (Fisk University ) はアメリカ合衆国テネシー州ナッシュビルに1866年に創立された私立歴史的黒人大学。40-エーカー (160,000 m2)のキャンパスの歴史的地区はアメリカ合衆国国家歴史登録財に認定されている。

1930年、南部大学学校協会に認定された最初のアフリカ系アメリカ人施設となった。この認定により特別プログラムがすぐに実施され、1952年、黒人大学で初めてPhi Beta Kappa の設立許可を得た。12月、Phi Beta Kappa 全米優等生協会のデルタ・テネシー支部を組織し、1953年4月4日に最初の学生会員が任命された。
歴史

1866年、南北戦争終戦から6ヵ月後、北部アメリカ伝道協会(AMA)のリーダー達、ジョン・オグデン、エラスタス・ミロ・クラヴァス牧師、エドワード・パームリー・スミス牧師は解放奴隷の教育のためのFisk Free Colored School (フィスク解放有色人種学校)を創立した。AMAは全米の解放奴隷への教育を支援しようとしていた。7歳から70歳までの幅広い年齢で教育を受けたいと強く願う解放奴隷の入学者が最初の数ヶ月で200名から900名に飛躍的に増加した。校舎に使える新しい兵舎を建て、テネシーの白人、黒人双方の子供のための無料学校を制定したテネシー奴隷解放局クリントン・B・フィスク将軍に敬意を表し名付けられた。さらに彼は計3万ドルの資金を提供した[1]。AMAの業務は大学と提携しているキリスト連合教会により支援されていた[2]。1866年1月9日、授業開始。

テネシー州では公立教育の制度が整ってくると教員養成が必要になり、1867年8月、師範学校のフィスク大学となった。クラヴァスは学部とモーツァルト協会を組織し、テネシー州で最初の音楽組織となった。入学者数が増大し、大学の必要性が高まった。1870年、アダム・ナイト・スペンスはフィスク師範学校の学長となった。彼の妻キャサリン・マッキー・スペンスはフィスク大学の学生への伝道の日曜学校の設立、学校運営資金のため全米をまわり、ANAを通じて寄贈した[3]。アダム・スペンスは宗教および芸術への強い関心があり、学生聖歌隊を編成することを支援した。1871年、この学生聖歌隊はヨーロッパに資金集めのための巡業に出た。これがフィスク・ジュビリー・シンガーズの始まりであった。解放奴隷への教育のための校舎の建築のための資金集めで、約5万ドルを集めジュビリー・ホールの建設に充てた。この建物は現在アメリカ合衆国国定歴史建造物に指定されている[4]

1880年代、カリキュラムを拡大し、同時に校舎の建設計画も活発化してきた。20世紀終盤までに黒人の教師および職員を採用し、黒人大学としての第二期を迎えた[4]

1947年、社会学者でハーレム・ルネサンスに関する定期刊行誌『オポチュニティ』の編集長のチャールズ・S・ジョンソンが初のアフリカ系アメリカ人学長となった。

2002年、小規模だが高品質のリベラル・アーツ・カレッジであるフィスク大学とオハイオ州クリーブランドの大規模で多学部の研究大学であるケース・ウェスタン・リザーブ大学は双方の学生、教授、職員の機会拡大のため教育的パートナーシップを結んだ。「このパートナーシップを通して学生達は多様なカリキュラムに触れる機会を持つことができ、幅広い視点から交換学生や共同研究を行なうことができる。教授陣を派遣し合うのは互いにとって良い刺激になる。この契約では共同研究、教授の交換、最新技術による遠距離授業を行なうことになっている。」[5]

2004年より、ビル・クリントン大統領政権下の元アメリカ合衆国エネルギー長官ヘイゼル・オレリーが第14代学長となった。彼女はフィスク大学で2人目の女性学長である。2008年6月25日、6月30日締めの会計年度で400万ドルをあげたことを発表。これにより9年続いた財政赤字を解消しアンドリュー・メロン財団の助成出願の資格要件を満たした。しかしながらフィスク大学はいまだ重大な財政的苦境に立っており、これが解消されなければ閉校の可能性もあり得る[6]

2008年3月12日、ナッシュビル都市圏議会でその教育の高さに敬意を表し3月19日を『フィスク大学の日』とすることが可決された。
キャンパス

キャンパス内の復元された40エーカー(160,000 m2)のジュビリー・ホールは最古ヴィクトリア朝建築の独特な構造の建築物である。
音楽、芸術、文学

カール・ヴァン・ヴェクテンと関わる著名なハーレム・ルネサンスの音楽や文学のコレクションを貯蔵している。
アルフレッド・スティーグリッツ・コレクション

1949年、画家のジョージア・オキーフは夫アルフレッド・スティーグリッツの地所にある99枚の絵画を手放すことを検討していた。彼女はそのうち2枚をフィスク大学に寄贈した。この2枚は校内のカール・ヴァン・ヴェクテン・ギャラリーに常設展示された。

2005年、深刻な財政難により、大学理事会はオキーフの『Radiator Building 』とマースデン・ハートレイの『Painting No. 3 』(見積額計4,500万ドル)を売却するかどうかの投票を行なった。しかしオキーフの遺産管財者のジョージア・オキーフ美術館は、彼女の遺産贈与品を売却することは許可されないとして法的に訴えた。2007年末、クリスタル・ブリッジ・アメリカ芸術美術館がオキーフ美術館との裁判費用を肩代わりする代わりにこの作品を共有する計画が持ち上がり[7]、オキーフ美術館は訴訟を取り下げた。2010年10月、裁判官は大学がコレクションを手放さずに済むようにこの絵画の半額がクリスタル・ブリッジに売却されるとし、共同所有できなくなった場合はデラウェア州またはテネシー州以外で裁判を行なうこととした。これによりフィスク大学はこの絵画を2013年まで所有でき、その後クリスタル・ブリッジと2年ごとに所有権を交代することとなった[8]。2012年4月、テネシー最高裁判所は数ヵ月後の8月2日、デイヴィッドソン郡衡平法裁判所はフィスク大学とクリスタル・ブリッジが共同でスティーグリッツ芸術コレクション社を創立することを認可。売り上げ金額3,000万ドルのうち390万ドルをフィスク大学のヴァン・ヴェクテン・ギャラリーのコレクションの保管や修繕のために確保することとなった[9][10]。今回の裁判費用は580万ドルであった[11]
科学

アフリカ系アメリカ人の自然科学分野での博士号取得者は他の教育機関よりも多い[12]
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この節の加筆が望まれています。

スポーツ

フィスク大学のスポーツ・チームのニックネームは『ブルドッグス』。Gulf Coast Athletic Conference、National Association of Intercollegiate Athletics (NAIA)のディヴィジョン2に属している。男子チームにはバスケットボール、クロス・カントリー、テニス、陸上競技、女子チームにはバスケットボール、クロス・カントリー、ソフトボール、テニス、陸上競技、バレーボールがある。
著名な卒業生

リル・ハーディン・アームストロング
(1915年) - ジャズ・ピアニスト、作曲家。ルイ・アームストロングの2番目の妻。

コンスタンス・ベイカー・モトレイ(1941年?1942年) - アフリカ系アメリカ人女性初のニューヨーク議会議員

マリオン・バリー(1960年) - 元ワシントンD.C.市長

メアリー・フレンセス・ベリー - 元公民権委員、コロラド大学ボルダー校元総長

ジョン・ベッチ(1967年) - ジャズ・パーカッション奏者

ジョイス・ボウデン - アフリカ系アメリカ人女性初の全米音楽学校協会認定委員


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