フィギュアスケートの歴史
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ヴェルデ(1590-1630)作

フィギュアスケートの歴史は、スケート競技のひとつであるフィギュアスケートの起源から発生、現在に至るまでの経過。ただし、起源に関しては諸説あるため、現在最も有力とされている説を中心に話を進めるこ
目次

1 起源

2 発展

2.1 ヨーロッパ

2.2 北米

2.3 日本


3 競技化

3.1 ヨーロッパフィギュアスケート選手権

3.2 世界フィギュアスケート選手権

3.3 オリンピック


4 進化

4.1 20世紀初頭

4.2 第一次世界大戦前後

4.3 第二次世界大戦後

4.4 20世紀後半から現代


5 脚注

5.1 注釈

5.2 出典

5.3 参考文献


6 関連項目

7 外部リンク

起源 リドヴィナの転倒を描いた木版画(1498年)

スケートの起源は旧石器時代にまで遡る、とされる。スイスイギリススカンディナヴィア半島などヨーロッパの広い地域でマンモスシカウシなどの骨を加工した獣骨スケートが見つかっている。このころのスケートはスキーソリなどと同様に、物資を運ぶ手段として用いられたと考えられている。

時代が下り中世以降は、オランダフリースラント州やイギリスのケンブリッジシャー州付近などの沼沢地帯でスケートは発展していった。オランダでは、12世紀ごろから運河の建設が行われていたこともあり、17世紀には既に都市と都市とを網の目のように結ぶほど運河が発達した。この運河が結氷するとアイスリンク代わりとなり、スケートはあらゆる階層の人々の娯楽として発展していった。しかし、娯楽としてのスケートの発展とともに農民階級と貴族階級とではスケートに対する考え方の違いが生まれていく。目的地に向かってできるだけ早く到着することを重視した農民階級に対し、貴族階級では優雅さや芸術性を重んじた。やがて貴族階級の人々は、両腕を組み背筋を伸ばして滑走する独特の滑走術を生み出し、このオランダ貴族の滑走術はヨーロッパ各地の貴族階級に広がっていった。ここにスピードスケートフィギュアスケートの分岐を見ることが出来る。
発展
ヨーロッパ

このオランダ貴族の滑走術をイギリスに伝えたのは、1660年王政復古とともにイギリス本国へ戻ったスチュアート家とされる。オランダ貴族の滑走術は「ダッチロール」と呼ばれ、シルクハットとモーニングの衣装とともにイギリスのエディンバラを中心に流行し、1742年にエディンバラに世界初のスケートクラブであるエディンバラ・スケートクラブが創立された[※ 1]。エディンバラのクラブでは、優雅な姿勢に重点を置いたダッチロールから、トレースによって曲線を描く技術に重点を置くようになっていった。1772年には、イギリスの砲兵隊副官ロバート・ジョーンズによって世界初のフィギュアスケート指導書である「スケーティング論(A Treatise on Skating)」が出版され、アウトやインのエッジでサークルやハート型を描く技術を説明した。

同じころ、ドイツではグーツ・ムーツが1773年に「青少年の体育(Gymnastik fur die Jugend)」を著し、フィギュアスケートをスポーツとして位置づけ、1795年にはフィートが「体育百科事典」でさまざまな図形を紹介した。また、フランスでも1813年にガルシンがフィギュアスケートに関する著書を発表するなど、ヨーロッパ各地で滑走方法や図形の研究が盛んになっていった。

19世紀になると、イギリスでは優雅な芸術性よりも難度の高いターンや図形の創作にますます関心が高まっていき、やがてコンパルソリーフィギュアの原型へと発展していくこととなる。
北米 ジャクソン・ヘインズ

一方アメリカでは、ヨーロッパの移民などからスケートが伝わり、独自に発展していった。19世紀中ごろには、バレエ教師のジャクソン・ヘインズがスケートにバレエのポーズやダンスのステップを取り入れ、音楽に合わせて滑走を行い好評を博した。ヘインズは1868年と1871年にヨーロッパを訪れ、ウィーンブダペストベルリンなどでエキシビションを行い、特にウィーンではシュトラウスモーツァルトの音楽に合わせ、ワルツマーチのステップで滑走し、大成功を収めた。ウィーンでの成功により指導を請われたヘインズは、音楽とステップを融合したスタイルをコンチネンタルスタイルと称しウィーンにスケート学校を設立したが、ヘインズは1875年にフィンランドで生涯を終えた。ヘインズの指導を受けた人々は、その後もコンチネンタルスタイルを発展させやがてインターナショナルスタイルと称されるようになり、フリースケーティングの原型へと発展していく。なお、シットスピンを開発したのはヘインズであり、シットスピンは別名ジャクソン・ヘインズスピンとも呼ばれる。
日本

1877年明治10年)、札幌農学校のアメリカ人教師ウィリアム・ブルックスがスケート用具を日本に持ち込んだことを以って、日本にスケートが伝わったとされる[※ 2]。しかし、当時はまだ外国人の娯楽にすぎなかった。

画像外部リンク
仙台スケート会 / 1912年(明治45年) 第二高等学校

1897年(明治30年)頃、米国人のデブィソンが仙台城の堀である五色沼で子供達にフィギュアスケートを教えた。これを日本のフィギュアスケート発祥とする説[1]もある。1909年(明治42年)頃には、(旧制)第二高等学校の生徒が、ドイツ語教師ウィルヘルにフィギュアスケートの基本を習い、彼らの後輩を含めて各地で普及に努め、日本スケート界の功労者といわれた[※ 3]

1914年大正3年)に河久保子朗がアメリカ人のジョージ・ブラウンの著書(A handbook of Figure Skating)を翻訳出版し、2年後の1916年(大正5年)にはさらに内容を充実させた「氷滑」を出版したことでフィギュアスケートが広く知れ渡るようになり、愛好家が急増した。1920年(大正9年)、河久保は仙台・東京・諏訪・関西の有志とともに、日本初のスケート統括団体である「日本スケート会」を設立した[2][3]1922年(大正11年)には長野県で第1回全日本競技会を開催し、1925年には国際スケート連盟に加盟した。


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