フィオレロ・ラガーディア
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フィオレロ・ラガーディアFiorello La Guardia
フィオレロ・ラガーディア(1940年)
生年月日 (1882-12-11) 1882年12月11日
出生地 アメリカ合衆国ニューヨーク州グリニッジ・ヴィレッジ
没年月日 (1947-09-20) 1947年9月20日(64歳没)
死没地 アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市ブロンクス区
出身校ニューヨーク大学
所属政党共和党
配偶者テア・アルメニゴッティ
マリー・フィッシャー
サイン
第99代ニューヨーク市長
在任期間1934年1月1日 - 1945年12月31日
アメリカ合衆国下院議員
選挙区ニューヨーク州第14区
在任期間1917年3月4日 - 1919年12月31日
アメリカ合衆国下院議員
選挙区ニューヨーク州第20区
在任期間1923年3月4日 - 1933年3月3日
第10代ニューヨーク市議会議長
在任期間1920年1月1日 - 1921年12月31日
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フィオレロ・ヘンリー・ラガーディア(英語: Fiorello Henry La Guardia、1882年12月11日 - 1947年9月20日)は、アメリカ合衆国政治家共和党に属するリベラル派であり、1934年?1945年の3期に渡りニューヨーク市長[1] を務めた。それ以前は1916年と1918年、及び1922年?1930年にアメリカ合衆国議会に選出された。短気かつエネルギッシュでカリスマ性に富み出世欲が強く、米国史上最も偉大な市長を3?4人挙げるとすればその中に入ると言われている。身長が150cmしかなく「小さな花」と呼ばれた(「フィオレロ」はイタリア語で「小さな花」の意。イタリア語で「花」を意味する"fiore"の指小語)。

ラガーディアは名目上は共和党員だったが党派を超えて支持を集め、1930年代のニューヨークにおいて大変人気があった。ニューディール政策の支持者として民主党フランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領を支え、替りにルーズベルトはニューヨーク市に多額の資金援助を行うと共にラガーディアの政敵による同市への資金提供を遮断した。1941年には現職市長のまま民間防衛の全米指導者になったが、業績は凡庸だった。国政への参画は果たせず、1946年初めに市長職を離れ、連合国救済復興機関で短期間だが事務総長を務めた。

ラガーディアはニューヨーク市を再生させ、民衆による役所への信頼を取り戻した。彼は交通網を統合し、安価な公共住宅、公共の運動場および公園の建設を指導し、空港を建設し、警察機構を建て直し、同市を牛耳っていた政治的マシーン(集票組織)であるタマニー・ホールを打破し、公務員職が金で買われていた状況を正して能力本位の雇用を再確立した。彼は連邦から多額の資金を同市に引き出した[2]

ラガーディアは独裁的な指導者であり専制政治に近い傾向があったが、彼の改革政策は気紛れな有権者たちの感性を巧みに反映し利用していた。彼は腐敗した集票組織を打破し、恐慌と第二次世界大戦の時代を通じて市政を司り、同市をニューディール政策の福祉と公共事業計画のモデル都市にして、そして移民と少数民族を擁護した。彼の成功は大統領の理解に支えられていた。彼は強い意志を持つ改革派市長として腐敗を一掃し、有能な専門家を登用し、市民のための広い責任を負う市政を取り戻したことで歴史に名を残している。彼の統治下ではそれまで政治システムから疎外されていた人々の集団に手が差し伸べられ、ニューヨークに近代的なインフラが整備され、都市が持つ可能性を新たな段階に引き上げた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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