フィアット・500
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この項目では、初代と2代目のフィアット500について説明しています。

「チンクェチェント」が正式名称の乗用車については「フィアット・チンクェチェント」をご覧ください。

2007年から生産されているフィアット500については「フィアット・500 (2007年)」をご覧ください。

ミニバンタイプのフィアット500Lについては「フィアット・500L」をご覧ください。

クロスオーバータイプのフィアット・500Xについては「フィアット・500X」をご覧ください。

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出典検索?: "フィアット・500" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2014年9月)

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フィアット500 (Fiat500)はイタリア自動車製造会社 フィアットが製造・販売していた自動車である。
初代500(1936 - 1955年) トポリーノ

1936年に発表された2人乗りの超小型車で、1955年まで製造された。500Aとその改良による系列車両の500Bと500Cが該当する。小型車ではあるが、発表当時としては高度なメカニズムを多数取り入れ、戦前・戦後を通じて大きな商業的成功を収めたモデルであり、系列車は総計約60万台が生産された。

ハツカネズミを意味する“トポリーノ”の愛称で呼ばれたが、この愛称は、その小柄なボディと小さなエンジンで機敏に走り回るさま、そして前期モデルシリーズにおける、丸みのあるボンネット脇のやや高めの位置に外付けされたヘッドライトなどによる愛嬌ある外観から名付けられたものである。

1930年代中期、フィアット社では1932年に発表した1000cc級の小型車・508「バリッラ」の販売が好調な状態であったが、当時のフィアット総帥であるジョヴァンニ・アニェッリは、大衆向け自動車市場のさらなる開拓を目論み、バリッラよりも小型の乗用車を市場に送り出すことを企画した。開発に当たったのは元航空機技術者のアントニオ・フェッシアを中心とするチームで、この中に後のフィアット主任技術者として数々の傑作車を開発することになるダンテ・ジアコーサがいた[注 1]

フィアットは、すでにバリッラでアメリカのクライスラーの流儀に倣った4輪油圧ブレーキと鋼製ボディを採用していた。また1935年に発売された6気筒エンジンの中級車“フィアット1500”では、当時としては前衛的な空力流線型スタイルの効果で、1クラス上の旧型2L車を凌ぐ性能を確保することに成功、さらに同車で前輪独立懸架も採用していた。それらの先行成果は、新しいミニマムカーに惜しげなく応用された。

こうして開発された初代500は、当初5,000リラという激安価格での販売が計画されていたが、高度なメカニズムを詰め込んだ結果、製造コストが想定以上にかかり、実際の販売価格は8,900リラにまで跳ね上がってしまった。それでも従来の自動車に比べれば大幅に廉価であったことから、イタリアの大衆からは歓迎され、派生型の商用モデルの展開も手伝って、当時の「国民車」として大成功を収めた。戦時中の生産中断はあったものの後継車種の500Bにマイナーチェンジされる1948年の生産終了までに約12万2千台が生産された。 500C

500Bのイタリア本国での売れ行きは戦後も順調で、1949年にはボンネット周りを1940年代のアメリカ車風にヘッドライトのフェンダー埋め込み化するなど近代的デザインチェンジした500Cが登場。1951年に追加された4座ワゴンタイプの「ベルベデーレ」を含むトポリーノ系列は、生産期間末期まで好調な販売を維持し、後継車種のリアエンジン車600(セイチェント)が発売される1955年まで生産された。

また、フィアット資本の入ったフランスシムカでもシムカ5(サンク)の名前で1937年から同型車両がノックダウン生産された。フランスにおいて当時同等サイズのミニカーがなかったことからヒット作となったが、戦後の1946年にルノー・4CV、1948年にシトロエン・2CVという近似クラスの4ドアで4人乗りのフランス製大衆車が発売されると、2人乗りの不利さから急激に販売を減らし、1950年までに生産中止となっている。
メカニズム

シャーシに当時のスタンダードである独立したはしご型フレームを持つ一方、流線型の全鋼製ボディや油圧ブレーキに加え、先端技術である前輪独立懸架を導入した、この時代の超小型車としては極めてぜいたくなものであった。水冷エンジン、FRを採用した。

小型のエンジンを前車軸前方にオーバーハングさせ、重心を前方に傾けて操縦性に配慮するとともに、ホイールベース間でドライバーが足を伸ばせる十分なスペースを確保するなどの工夫がなされていた。1934年のクライスラー・エアフローが前方荷重を高めることで操縦性と居住性を改善した成果を小型車にまで広げたものといえ、ヨーロッパでも先駆的な手法を取り入れた車両だった。

エンジンはサイドバルブ・2ベアリングという最低限の仕様ながら、上級車種並みの水冷4気筒となっており、569ccの排気量から13.5PSを発生した。ラジエーターフロントグリルがエンジン前方で曲線を描いて後傾していることから十分な高さが取れず、バルクヘッド(エンジンルームと室内の隔壁)直前に搭載している。またこの配置により、冷却水の比熱の差で自然循環する「サーモサイフォン」現象を利用して、独立したウォーターポンプを持たない。エンジンは1948年の500Bへのマイナーチェンジに際して排気量570ccのOHV・15.7PSに強化・拡大されている。

2ドア仕様であるが、このドアは後ヒンジの前開きで、現在の乗用車とは逆方向に開く構造である。後年の安全性重視の見地からすると必ずしも好ましくないが、当時はそれよりも乗降性を重視して採用された。

通常モデルは2人乗りにもかかわらず、ユーザーたちはお構いなく座席後にまで無理矢理乗り込んで4人、5人乗りを敢行した。これにより後輪固定軸を支えるリーフ式サスペンション(1/4カンチレバーリーフ)が折れるトラブルが多発したことを受けて、1938年には後車軸スプリングが1/2半楕円リーフに強化されている。

1953年にイタリアでのロケーションで製作されたアメリカ映画『ローマの休日』(ウィリアム・ワイラー監督)では、オードリー・ヘプバーン扮するヒロインの王女を撮影しようとするカメラマン(エディ・アルバート)の足車として前期型のトポリーノが登場し、主人公の新聞記者(グレゴリー・ペック)のベスパスクーターと共にローマの街を走り回るが、劇中、カメラマンと新聞記者が乗車した前席の後に王女が立ち乗りするシーンがある。これはイタリアにおけるトポリーノの実際の乗られ方を踏まえた演出ともいえる。
2代目 NUOVA 500(1957 - 1977年)

フィアット・500
2代目 NUOVA 500
概要
製造国 イタリア
販売期間1957 - 1977年
設計統括ダンテ・ジアコーサ
ボディ
ボディタイプ2ドアセダン
2ドアコンバーチブル
3ドアワゴン
3ドアバン
駆動方式RR
パワートレイン
変速機4速MT
車両寸法
ホイールベース1,840mm
全長2,970mm
全幅1,320mm
全高1,320mm
系譜
先代フィアット・500 トポリーノ
後継フィアット・126 バンビーノ
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正式名称はFIAT NUOVA 500(新フィアット500)であるが、一般にはイタリア語で500を意味するチンクェチェント(Cinquecento)の呼称で知られている。旧500のトポリーノと区別するため、NUOVA 500(新500)と称される。初代500の直接後継モデルではなく、異なるコンセプトで新規設計された同クラス・別系統車種である。

先行して発売されていた600(1955年発表)のメカニズムが多くの点で流用されており、同様にモノコックボディのリアエンジン・リアドライブ車となった。
開発経緯

NUOVA 500の登場に先行し、新型車600(セイチェント)が、1955年に製造終了した初代500(以下トポリーノ)の後継車としてジアコーサの手で開発されていた。600はトポリーノとほぼ同等の全長ながら、リアエンジンリアドライブ方式の採用などでスペース効率を大幅改善し、完全な4人乗り乗用車として設計されていた。

ジアコーサは600の開発にあたり「4人乗り車の半分の費用で2人乗り車を作ることはできない(従って4人乗り車の方がユーザーの便益が大きい)」という信念のもと4座化を図った。この実現のためにスペース効率や軽量化の見地からプロペラシャフトを廃した駆動方式を探り、当時前輪駆動車の実現には等速ジョイントの実用性が不十分だったことから、より現実的なリアエンジン方式を採用した。

600はトポリーノにも劣らぬ人気車種となったが、フィアットはこの成功に満足していなかった。1950年代当時のイタリアでは、軍需を失った戦後の代替製品として、航空機メーカーや鋼管メーカーがこぞってスクーター市場に進出しており、自動車を買えない大衆の足として大きな成功を収めていた。


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