フアン2世_(アラゴン王)
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フアン2世
Juan II
アラゴン国王
ナバラ国王
シチリア国王
フアン2世
(マヌエル・アギーレ・イ・モンサルベ画、1854年
在位ナバラ王:1425年 - 1479年
アラゴン王:1458年 - 1479年
シチリア王:1458年 - 1468年

出生 (1397-06-29) 1397年6月29日
カスティーリャ王国メディナ・デル・カンポ
死去 (1479-01-20) 1479年1月20日(81歳没)
カタルーニャ君主国バルセロナ
埋葬 カタルーニャ君主国ポブレー修道院
配偶者ナバラ女王ブランカ1世
 フアナ・エンリケス
子女一覧参照
家名トラスタマラ家
王朝トラスタマラ朝
父親フェルナンド1世
母親レオノール・デ・アルブルケルケ
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フアン2世

フアン2世(西:Juan II, 1397年6月29日 - 1479年1月20日)は、ナバラ王(在位:1425年 - 1479年)、およびアラゴン王バレンシア王バルセロナ伯(在位:1458年 - 1479年)、シチリア王(在位:1458年 - 1468年)。カタルーニャ語名ではジュアン2世(Joan II)、イタリア語名ではジョヴァンニ2世(Giovanni II, シチリア王としては1世)。大王(西:el Grande)と呼ばれる。

アラゴン王フェルナンド1世と王妃レオノール・デ・アルブルケルケの次男で、アラゴン王兼ナポリ王アルフォンソ5世の弟。また、同名のカスティーリャ王フアン2世は従弟に当たり、アラゴン王兼カスティーリャ王でカトリック両王と称されたフェルナンド2世の父でもある。

強権的な政治が分権を尊重するアラゴン連合王国構成国から反発され、先妻の子供たちとの対立も相まって内乱を発生させた。対立王が次々と出現する事態にまでなったが、外交と軍事の積み重ねや自身の長寿により切り抜け、ナポリ王国とナバラ王国を除いて一体化させた連合王国を次代に譲り渡した。
生涯
カスティーリャとの関わり、ナバラ・アラゴンの相続

フェルナンドは元はカスティーリャ王子であり、フアンもカスティーリャのメディナ・デル・カンポで生まれた。出生時にはカスティーリャの王弟の次男という傍系王族にすぎなかった。フェルナンドは幼少の甥フアン2世が即位すると摂政を務めた。

父がカスペの妥協の結果、1412年にアラゴン王に推戴されるとフアンの立場も向上、シチリア王にもなった父の命令で副王としてシチリアへ派遣されたが、1416年に父が亡くなり兄アルフォンソ5世が即位すると帰国させられ、兄の側近と交代した[1]。また摂政だった父の基盤を利用し、兄や弟エンリケと共にカスティーリャへ干渉(「アラゴンの王子たち」 (Infantes de Aragon) と呼ばれた)、有力貴族と結びついて従弟のカスティーリャ王フアン2世を圧迫した。しかしアラゴン議会に介入を反対されたため、1430年にカスティーリャと休戦協定を結び、カスティーリャから排除された[2]

兄アルフォンソの即位後の1419年、ナバラ王カルロス3世の娘でシチリア王マルティーノ1世の未亡人であった11歳年上のブランカと結婚した。カルロス3世は1425年に死去するが、男子がいずれも夭逝していたためにブランカが王位を継承し(ブランカ1世)、夫であるフアンも共同君主としてナバラ王となった。フアンは最初ブランカの妹イザベルと婚約していたが、それを破棄してブランカとの結婚に代えたという事情があった。王位を継承したとはいえフアンの立場は弱く、舅のカルロス3世からナバラ人以外の採用禁止、ナバラの土地の売買禁止など制約を強いられた[3]

アルフォンソ5世はたびたび外征を重ね、ナポリ王国の征服後はナポリに宮廷を構えて戻らなかったため、代わってフアンが義姉で従妹でもある王妃マリアと共にアラゴンやカタルーニャを統治した。アルフォンソには嫡子がなかったため、1458年の死後にフアンがアラゴン連合王国の大部分を相続することになり、アラゴン王、バレンシア王、バルセロナ伯、シチリア王を継承した。アルフォンソはナポリ王も兼ねていたが、これは庶子フェルディナンド1世が相続した。後にフアン2世と後妻フアナ・エンリケスとの間の娘フアナがフェルディナンド1世の2番目の妃となっている[4]
父子の対立と内乱

アラゴン連合王国の一部だったカタルーニャの都市バルセロナでは貴族層と大商人、中小商人と職人層の対立があり、市会はそれぞれビガ・ブスカと呼ばれる派閥で混乱していた。フアン2世は当初ビガに肩入れしていたが、後からブスカを贔屓し彼らのバルセロナ市会独占、およびブスカが掲げる国内産業の保護政策を後押しした。しかし、経済立て直しに失敗したブスカが1462年に市政を放棄すると、それは王権への打撃と反発したビガのジャナラリター・デ・カタルーニャ結集を引き起こし、ジャナラリターが王権に反旗を翻す伏線になった[5]

折しも、フアン2世も家庭問題を抱えていた。アラゴン王即位前の1440年、まだカスティーリャに未練があったフアンは次女ブランカを甥のカスティーリャ王エンリケ4世(姉マリアとカスティーリャ王フアン2世の息子)に嫁がせた。翌1441年にブランカ1世が死去した際、ナバラ王位は長男ビアナ公カルロスがフアンの同意の下に継承するよう遺言した。しかしフアンは同意を与えず、カルロスを総督の地位に留め、ナバラの王位継承法に反して王位を譲らなかった[6]

さらに、1444年に再婚したフアナ・エンリケスが、自分との間に生まれた王子フェルナンド(後のフェルナンド2世)をアラゴンとナバラの王位継承者とするよう迫った。立場が危うくなったカルロスも支持者の貴族たちに煽られフアンと対立し挙兵、敗れて投獄されると、脱走してナポリのアルフォンソ5世の下へ逃れた。1458年にアルフォンソ5世が亡くなり、アラゴン王位を継承したフアン2世は、シチリアへ移ったカルロスに和解を呼びかけ、1460年に実現しかけたが、カルロスがカスティーリャに内通していたことが発覚すると再度投獄した。王位継承問題はナバラの貴族間の抗争、カタルーニャの反乱につながり、カルロスは2度にわたって投獄された後、フアン2世が強引な政治姿勢に反発したカタルーニャ(ジャナラリター)の要求に屈したため1461年に釈放されたが、同年に父に先立って死去した。


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