フアン・ロマン・リケルメ
2019年のリケルメ
名前
愛称ロマン、ロミー
ラテン文字Juan Roman RIQUELME
基本情報
国籍 アルゼンチン
生年月日 (1978-06-24) 1978年6月24日(45歳)
出身地ティグレ・パルティード
ドン・トルクアト
獲得メダル
男子 サッカー
オリンピック
金2008 北京サッカー
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj
フアン・ロマン・リケルメ(Juan Roman Riquelme, 1978年6月24日 - )は、アルゼンチン・ブエノスアイレス州ティグレ・パルティードドン・トルクアト出身の元サッカー選手。現役時代のポジションはミッドフィールダー。元アルゼンチン代表。現在はボカ・ジュニアーズ会長。
1996年にボカ・ジュニアーズからデビュー。2002年にスペインに渡り、FCバルセロナとビジャレアルCFでプレーした後、2008年には古巣ボカ・ジュニアーズに復帰した。アルゼンチン代表としては、コパ・アメリカ1999、2006 FIFAワールドカップ、北京オリンピックなどに出場した。アルゼンチン年間最優秀選手賞を4回受賞しており[2]、2001年には南米年間最優秀選手賞を受賞した。リケルメ自身ほぼ自分のポジションから動かず、自らの出す極めて精度の高いパスで味方選手を動かすという現在のサッカー界ではほとんど絶滅してしまったプレースタイルの持ち主であり、その古めかしさからしばしば「恐竜」というあだ名で呼ばれている。 ブエノスアイレスの北部郊外にあるティグレ・パルティードの、貧困者が多く住む町の質素で貧しい家庭に、11人兄弟の長男として生まれた[3]。リケルメの誕生日(1978年6月24日)はアルゼンチンで開催された1978 FIFAワールドカップの大会期間中であり、翌日の6月25日にエル・モヌメンタルで行なわれた決勝では、マリオ・ケンペスなどの活躍によりアルゼンチン代表がオランダ代表を破って優勝を決めた。地元のドン・トルクアト市からほど近いサン・フェルナンド ボカでトップ下に転向した。トップチームのカルロス・ビラルド監督に見出され、1996年11月11日、CAウニオン戦 (2-0) でトップチームデビューし、2週間後のCAウラカン戦 (6-0) ではトップチーム初得点を挙げた。1998年にはカルロス・ビアンチ監督が就任し、背番号10を手渡されてレギュラーに定着。アペルトゥーラ1998でリーグ戦自身初優勝を飾り、クラウスーラ1999でも優勝して1998-99シーズンは前後期制覇を遂げた。2000年のコパ・リベルタドーレスでは、ラウンド16でCDエル・ナシオナル(エクアドル)、準々決勝でリーベル、準決勝でクラブ・アメリカ(メキシコ)、決勝でSEパルメイラス(ブラジル)を下して南米王者に輝いた。アペルトゥーラ2000でも優勝したほか、同年末に日本で開催されたトヨタカップではレアル・マドリード(スペイン)を下して優勝し、2000年は国内外で3冠を達成した。2001年にはコパ・リベルタドーレスで2連覇を果たしたが、インターコンチネンタルカップではバイエルン・ミュンヘン(ドイツ)に敗れて2連覇を逃した。ボカでの在籍期間の終盤にはマウリシオ・マクリ会長との確執があり、ヨーロッパのクラブへの移籍を要求してリーグ戦出場を拒否する行動に出た。 2002年11月後半、移籍金1100万ユーロでスペインのFCバルセロナに移籍した[4]。この契約直前には弟の誘拐事件が起こり、リケルメ自らが解放交渉を行なった。身代金を支払って弟は解放されたが、この事件がボカ退団の理由のひとつであったと後に語っている。バルセロナでは背番号10番を渡されたが、ルイ・ファン・ハール監督はリケルメの獲得を「政治的な契約」であると語り[5]、彼を冷たくあしらった。出場機会は少なく、不慣れなウイングとしても起用された。その多くが途中出場だったためにボカ時代のプレーからは程遠く、トップチームでのポジションを失っていった。コパ・デル・レイ要員となり、珍しく先発で起用されたUEFAチャンピオンズリーググループリーグのクラブ・ブルッヘ戦では決勝点を挙げた。ファン・ハール解任後に就任したラドミル・アンティッチ監督からも信頼を勝ち取れず、不本意な成績で2002-03シーズンを終えた。
クラブ経歴
ユース時代
ボカ・ジュニアーズ
バルセロナ