フアン・ロドリゲス・カブリリョ
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フアン・ロドリゲス・カブリリョ
Juan Rodriguez Cabrillo
Joao Rodrigues Cabrilho

生誕1499年ごろ[1][2]
死没1543年1月3日
サンタカタリナ島
著名な実績現在のカリフォルニア州に初めて到達した西洋人
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フアン・ロドリゲス・カブリリョ(スペイン語: Juan Rodriguez Cabrillo、ポルトガル語: Joao Rodrigues Cabrilho、1499年ごろ - 1543年1月3日)は、ポルトガル出身(異説あり)の航海士・探検者であり、スペイン帝国のために北アメリカの太平洋岸を探検したことで知られる。カブリリョは現在のアメリカ合衆国カリフォルニア州の海岸をはじめて航行した西洋人だった。

名前はカブリヨ、カブリージョとも記される。英語風にカブリロと記されることもある。
国籍

一般的に、カブリリョはポルトガルの生まれであると考えられており、年代記作者であるアントニオ・デ・エレラ・イ・トルデシヤスがカブリリョの没後60年たって書いた「Historia General de los hechos de los Castellanos en las Islas y tierra firme del Mar Oceano」においてポルトガル人であることが明記されている[3][4]。ポルトガル人はカブリリョを自国の英雄と考えており、カブリリョの生地を称する場所もいくつか存在する。

しかし、1986年にカブリリョの伝記を書いたハリー・ケルジーは、カブリリョがおそらくスペインセビリア出身であろうとしている[5]。いっぽう、カナダのウェンディ・クラーマーは、2015年にスペインの法律文書を調査して、1532年の訴訟の証人のひとりがフアン・ロドリゲス・カブリリョという名前で、スペインのコルドバ県のパルマ・デ・ミセルヒリオ(=パルマ・デル・リオ)の出身であると記されていることを発見した。この証人に関する他の詳細は探検者の事実に一致していた[6]
航海

カブリリョは若くしてハバナに航海し、メキシコ(当時はヌエバ・エスパーニャ)のエルナン・コルテスの軍隊に参加した。その後、グアテマラで金鉱を発見し、メキシコでもっとも裕福なコンキスタドールのひとりとなった[7]。伝記作家のハリー・ケルジーによると、現地の女性と事実婚を行って、少なくとも3人の娘を含む数人の子供を儲けた[7]。のちにスペインに戻ったときに、セビリアのベアトリス・サンチェス・デ・オルテガと結婚し、ふたりでグアテマラに戻り、2人の息子を生んだ[8]

カブリリョはアメリカの現地人を奴隷化するエンコミエンダ制によって利益を得た。たとえばホンジュラスでは、現地人の家庭を男女に分けて、男は金鉱へ送りこんだり、船を造るのに必要な材料を得るために森へ送りこんだりした。女は兵士や船乗りに与え、おそらくは奴隷にされた[9]

カブリリョは、フランシスコ・デ・オロスコが現在のメキシコのオアハカで現地のミシュテカ人を征服するのに同行した[10]。カブリリョがそこで何をしたかはほとんど何もわかっていない。

1539年、エルナン・コルテスから依頼を受けたフランシスコ・デ・ウリョアカリフォルニア湾を発見し、北緯30度近くまで到達した[11]。そこで、カブリリョは新任のヌエバ・エスパーニャ副王であるアントニオ・デ・メンドーサに依頼され、太平洋岸の探検隊を率いることになった。その目的は貿易の機会を得ることにあり、おそらく中国への航路を得る(北太平洋については完全にはわかっていなかった)か、または太平洋とハドソン湾を結ぶ伝説のアニアン海峡(または北西航路)を発見することにあった[要出典]。カブリリョは探検(2隻か3隻)のための旗艦を建設・所有し、貿易や財宝による利益はカブリリョが得ることになった[12]カリフォルニア州サンディエゴのカブリヨ・ナショナル・モニュメント

1540年、今のエルサルバドルのアカフトラから出港した艦隊は、クリスマスの日にメキシコのナビダードに到着した。メキシコに滞在中、ペドロ・デ・アルバラードは敵対的な現地人に攻撃されているノチストランを守ろうとしていたが、馬の下敷きになって胸を打ったことが原因で死亡した(ミシュトン戦争を参照)。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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