フアン・ルナ
Juan Luna
誕生日1857年10月23日
出生地フィリピン、Badoc
死没年1923年2月4日
死没地香港
テンプレートを表示
フアン・ルナ・イ・ノビシオ(Juan Luna y Novicio、1857年10月23日 - 1899年12月7日)は、フィリピンの画家、フィリピン独立革命期の政治運動家。 フアンはフィリピン北部の北イロコス州バドックで七人兄弟の三男として生まれた。父はドン・ホアキン・ルナ・デ・サンペドロ・イ・ポサダスで、母はドナ・ロレアナ・ノビシオ・イ・アンチェタ。1861年、フアンの家族はマニラへ移動し、弟にアントニオ・ルナがいる。兄にマヌエル・ルナも画家で、影響を受けたフアンはアテネオ・デ・マニラ大学に入学し、文学士号を取得した。フィリピン商船学校にも学籍を置いた。 絵画をマニラのエルミタに住むロレンソ・グエレロや、マニラの芸術学校(Academia de Dibujo y Pintura)ではスペイン人画家アグスチン・サエスに学んだ。 1877年、マヌエルとフアンはヨーロッパへ留学し、マヌエルは音楽、フアンは王立サン・フェルナンド美術アカデミーでアレホ・ベラに絵画を学んだ。1881年のマドリッドの国民芸術展覧会に発表した「クレオパトラの死」が銀賞を受賞し、奨学金を取得した[1][2]。1883年には基礎自治体ムニシピオ委員会から絵の発注を受け、1884年5月のマドリッド国民芸術展覧会にSpoliariumを発表し、金賞を受賞した。スペイン王とも友好関係を持つようになり、スペイン上院議会からの発注でLa Batalla de Lepanto (レパントの戦い)を描いた[3]。パリのスタジオのフアン
生涯
1894年、フィリピンに帰国し、1896年に日本へ旅行した。日本から帰国した1896年9月16日、弟で独立運動カティプナンの運動家のアントニオ・ルナがスペイン当局に逮捕された[6]。
1898年、フアンはフィリピン革命政府執行委員会パリ代表に任命され、フィリピン第一共和国の外交に従事し、翌1899年12月、米西戦争のパリ条約に調印した[7]。その後フィリピンに帰国すると、アントニオ・ルナが6月に殺害されたことを知った。その後、香港へ移り、1899年12月7日に心臓麻痺で死亡した。遺体は香港で埋葬された。
1892年の遺作Peuple et Roisは、1904年のセントルイス万国博覧会で賞賛された[8]。
絵画
Spoliarium
Las Damas Romanas, 1882
The Parisian Life
Picnic in Normandy
Plaza de San Marcos, Venezia
En el Balcon
Odalisque
Despues del Baile
La Muerte de Cleopatra
Mercado de Portugalete
Una Mestiza
La Burla, Roma, 1882
Street Flower Vendor
Nu Femeni
Espana y Filipinas
La Bulaquena
Tampuhan
La Batalla de Lepanto