フアン・ルイス・ゲラ
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フアン・ルイス・ゲラ
Juan Luis Guerra
ボストンでの公演
基本情報
出生名Juan Luis Guerra Seijas
生誕 (1957-06-07) 1957年6月7日(66歳)
出身地 ドミニカ共和国 サントドミンゴ
ジャンルメレンゲバチャータサルサラテン・ポップ
職業ミュージシャン歌手作曲家音楽プロデューサー
担当楽器ボーカルギターピアノ
活動期間1984年 -
レーベルKAREN Records、Venemusic、Capitol Latin
共同作業者エンリケ・イグレシアスフアネス、440
公式サイト ⇒www.juanluisguerra.com

フアン・ルイス・ゲラ[1](Juan Luis Guerra、1957年6月7日 - )は、ドミニカ共和国歌手シンガーソングライター。彼のレコードは世界中で3億枚の売上を誇り、12回のラテングラミー賞、2回のグラミー賞、2回のラテンビルボード賞を含む、数多くの賞を受賞している。

彼は数十年にわたって世界的に最も名の知れたドミニカ共和国のアーティストである。メレンゲボレロ、そしてアフロラテン・ポップスの混合された彼の音楽は、ドミニカ共和国のみならず世界中で稀有な成功をもたらした。フアンはしばしばドミニカ共和国で人気のあるバチャータと呼ばれる音楽を利用し、いくつかの曲ではボレロのメロディよりもむしろバチャータのリズムを基礎としている[2]。また、彼は1つの音楽のスタイルにはこだわらず、メレンゲ、ボレロバチャータ、バルダ、サルサロック、ついには「La Gallera」に現れるようにゴスペルの要素まで多様な音楽の趣を取り入れている。 素敵な社会像について歌った「en:Ojala Que Llueva Cafe」 (「コーヒーの雨が降ればなー」の意味)は彼自身で作曲したもので、最も高い評価を得ているものである。その他、ブラック・アイド・ピーズタブーと共に制作した「La llave de mi corazon」 (「私の心の鍵」の意味) もまた、彼の異なるジャンルの融合した音楽の1つの例である。
キャリア
生い立ち

フアン・ルイス・ゲラ・セイハスは、ドミニカ共和国サントドミンゴにて、オルガ・セイハス (Olga Seijas) とバスケット選手であったヒルベルト・ゲーラ (Gilberto Guerra) の間に生れる。音楽の活動を始める前は、ドミニカ共和国の公立大学であるサント・ドミンゴ自治大学で文学と哲学を勉強していた。それからフアンはサント・ドミンゴ国立音楽院 (El Conservatorio Nacional de Musica de Santo Domingo) でギターと音楽理論を学び、マサチューセッツ州ボストンの名門、バークリー音楽大学で学ぶためアメリカ行きを決意する。彼はバークリーを1982年、ジャズ編曲についてで学位を取り卒業する[3]。帰国後1984年にアルバム『Soplando』(「呼吸」あるいは「息をすること」の意味)をリリースし、フアン・ルイス・ゲラ&4.40 (Juan Luis Guerra y 440)として徐々に知られていくことになる。グループのメンバーは、マリダリア・エルナンデス、ロジャー・サヤス=バサン 、マリエラ・メルカードである。バンド名はスペイン語では公式に「Cuatro Cuarenta」(クアトロ クアレンタ = 四・四十)と公表されていて、普通「Cuatrocientos Cuarenta」(クアトロシエントス クアレンタ = 四百四十)というところを短縮した形になっている。なお、この名前は標準チューニング (Concert A) からきていて、フアンの兄弟ホセ・ヒルベルトが「名前は音階と我々を端的に表しているものがよい」と提案したという[4]。ゲラによれば、このファースト・アルバムはバークリーで学んだジャズの楽曲をコンセプトにしており、商業的なヒットは狙っていなたかったと語っている。そして彼は徐々にメレンゲの曲を書き始める[3]

彼らは『Mudanza y Acarreo』『Mientras Mas Lo Pienso...Tu』という2枚のアルバムを発表し、ドミニカ共和国で名声を得て、同国を代表してOTI (Organization of Iberoamerican Television) 主催の音楽フェスティバルにノミネート、参加する。

翌1989年のアルバムは彼らに国際的な名声をもたらした。このアルバム『4時40分 (Ojala Que Llueva Cafe)』では、バックにとても速いテンポながら緩やかなメロディを被せてあり、多くのラテンアメリカ諸国でチャート1位を獲得する。また徐々にヒットソングのプロモーション・ビデオが制作されるようになり、フアン・ルイス・ゲラ&4.40はツアーを行っていくようになる。なお、収録曲「Ojala Que Llueva Cafe」は、1996年と2008年にそれぞれCafe Tacuba、Rosario Floresにカヴァーされ、再度その名声を得ることとなる。
1990年代

1990年には彼は『薔薇のバチャータ (Bachata Rosa)』を発表して大きなヒットとなり、初のグラミー賞を受賞した。アルバムは500万枚を売上げ、ゲラはアメリカ合衆国ヨーロッパラテンアメリカ諸国へのツアーを続けることになる。このアルバムは、いくつかの彼の主要なラブソングのうち、「Burbujas de Amor(愛の泡)」、「Bachata Rosa(バチャータ・ロサ)」、「Rosalia(ロサリア)」、「Como Abeja al Panal(巣に戻る蜂のように)」、「A Pedir Su Mano(彼女の手に訊いて)」、「Carta de Amor(ラブレター)」、「Estrellitas y Duendes(星屑とエルフ)」を収録している。

ゲラは、1992年にアルバム『アレイト (Areito)』(タイノ語で「歌と踊り」の意味)をリリースした後、論争の的となる。これはヒットシングル「El costo de la vida(「生きることのコスト」の意味)」を含んでおり、このビデオが反アメリカ的なトーン(反資本主義的)であるとしていくつかの国々で禁止されたのだが、これがまた、ラテンアメリカ諸国一般的に存在するアメリカ批判を公に放映することへの恐怖から起こったものだったからである[5]。他の曲もまたいくつかのラテンアメリカ諸国の貧困について歌っており、1492年のアメリカ大陸の「発見」そして第一級の大国たちの二重規範を批判している。また、この曲はラテン音楽トラックで南国系音楽のパフォーマーとしては初めてのナンバーワンヒットの偉業を与えたと思われる。曖昧な表現を英語版からそのままの形で残す

1995年にはアルバム『フォガラテ! (Fogarate)』をリリースし、しばらくプロテストソングの発表からは遠ざかった。このアルバムはペリーコ・リピアーオ (Perico Ripiao)のような、とりわけより地域的であまり知られていないドミニカ共和国の音楽のタイプを基調としている。

1998年にはゲラはアルバム『Ni Es Lo Mismo Ni Es Igual』(「同じでもないし等しくもない」の意味)をリリース、絶賛を得て2000年にメレンゲ・ベスト・パフォーマンス(Best Merengue Performance)、ベスト・トロピカル・ソング(Best Tropical Song)、ベスト・エンジニアード・アルバム(Best Engineered Album) の3賞を受賞する。アルバムは「Mi PC(マイ・PC)」、「Palomita Blanca(白い小さな鳩)」、「El Niagara en Bicicleta(自転車の中のナイアガラ)」を収録。
2000年代ツアー「Para ti」におけるスペインマドリード公演にて。2005年7月

6年間の間を置き、2003年にゲラはアルバム『Para Ti』(君に)をリリースする。曲の多くは彼の熱心なクリスチャニティを反映してそのベースが信仰的なものになっている。このアルバムで彼は2005年のビルボードのゴスペルポップス、トロピカル・メレンゲのセクターで、2つの賞を受賞する。「Las Avispas(「ハチ」の意味)」という1曲で2つのカテゴリの賞を同時に受賞したのは初めてのことだった。この他、このアルバムはヒット曲として「Para Ti」、「Soldado(兵士)」を収録している。また同時に、彼はスペイン音楽学院から20年にわたるカリブ海地域と祖国への貢献によりラテン特別賞の栄誉を与えられている。

2006年1月、フアンはバークリーの60周年記念コンサートをポール・サイモンハービー・ハンコックミッシェル・カミロ、 キャーラ・チベッロらと行う。同年、彼は ディエゴ・トーレスの「Abriendo Caminos(開いている道)」という曲に演奏で参加し、マナーの「Bendita Tu Luz」(祝福されしあなたのその太陽)にボーカルで参加している。

2月に行われたローリング・ストーンズの「ア・ビガー・バン・ツアー」におけるプエルトリコサンフアン公演で共演している。


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