フアン・ドミンゴ・ペロン
Juan Domingo Peron
フアン・ドミンゴ・ペロン(1973年撮影)
アルゼンチン共和国
第28・39代 大統領
任期1946年6月4日 – 1955年9月21日
1973年10月12日 ? 1974年7月1日
副大統領オルテンシオ・キハノ
フアン・ドミンゴ・ペロン(Juan Domingo Peron、1895年10月8日 - 1974年7月1日)は、アルゼンチンの軍人、政治家、大統領。
大統領に3回当選したが、軍事クーデターで政権を取った企業国営化推進、外資排斥を打ち出すなどアルゼンチン・ナショナリズム・左派ポピュリズムの政治家又は独裁者であり、南米における左派ポピュリズムの元祖的な存在である[1][2]。国内の労働組合をCGT(アルゼンチン労働総同盟)の傘下に再編し、軍部協調による国家社会主義(state socialism)に基づく全体主義的支配をした。1946年の初政権では積極的工業化と産業国有化政策の行き詰まりで、1955年に一度目の権力追放された。3度目の彼の統治でアルゼンチンはデフォルト(債務不履行)に陥ったこともある[1][2]。そのため、アルゼンチン国内でもその評価は分かれる。ペロンの支援者「ペロニスタ」が母体となった正義党(ペロン党)は、現在でも同国内で大きな影響力を持っている[1][2]。
経歴
生い立ちの母の間に生まれた[3]。なお、私生児とされ、母方の家系をさかのぼれば、先住民の先祖にたどりつく。8歳でブエノスイアレス郊外の小学校に入学し、その後16歳でアルゼンチン陸軍士官学校へ進学した。
軍人陸軍少尉時代のペロン(1921年)
1913年12月に士官学校を卒業した後、アルゼンチン陸軍の第12歩兵師団に少尉として配属された。1924年に大尉に昇進した後、1926年から1929年にかけて陸軍大学校で軍事史の研究を修め、軍内で軍事史のスペシャリストとしての頭角を顕していった。1930年には陸軍学校の軍事史の教授となった後には精力的に軍事理論や特に日露戦争を中心とする軍事史の研究を行い、その観点から1930年代にはドイツ軍の総力戦思想、具体的には国家の工業化と国民統合の必要性を訴えるようになっていった。
陸軍内での出世は速い方ではなかったが、第二次世界大戦中の1939年から1941年までイタリア王国で駐在武官として赴き、ベニート・ムッソリーニのファシズムに影響された。帰国後、枢軸国支持派の軍人とGOU(統一将校団)と呼ばれる秘密結社を組織。1943年5月に陸軍次官に任命された。
労働福祉庁長官