フアン・バウティスタ・マルティネス・デル・マーソ
『画家の家族』(La familia del pintor), 1660年-1665年頃, オーストリア・ウィーン・美術史美術館,
本名Juan Bautista Martinez del Mazo
誕生日1612年頃
出生地 スペイン帝国・クエンカ
死没年1667年2月10日
死没地 スペイン帝国・マドリード
国籍スペイン
芸術分野画家
教育ディエゴ・ベラスケス
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フアン・バウティスタ・マルティネス・デル・マーソ(Juan Bautista Martinez del Mazo, 1612年頃 - 1667年2月10日)はバロック期のスペインの画家。ディエゴ・ベラスケスの弟子の中ではもっともよく知られる人物で、ベラスケスの筆致を他の画家の誰よりも模倣した[1]。ベラスケスの模倣だけではなく、デル・マーソ自身も『サラゴサ眺望』に代表されるよう風景画の名手としてもよく知られる。 マルティネス・デル・マーソの前半生には詳しく判明していない部分が多く、出生地・出生日ともに定かではない。マルティネス・デル・マーソの両親であるエルナンド・マルティネスおよびルシーア・ブエノ・デル・マーソがともにクエンカ出身であることから、クエンカ県の生まれであるらしい。しかしながらいくつかの文献においては、マドリードの出身であるともされる。母のルシーアが1596年生まれで、マルティネス・デル・マーソが20代前半である1633年に結婚していることから、恐らくは1612年ごろの出生であろう。[2] どこで絵画の修業をしたかは謎に包まれている。結婚以前にはベラスケスの工房にいたことは間違いなく、将来の義父となるベラスケスの元で見習いを行っていた可能性は十分に考えられる。1633年8月21日、有名画家であったベラスケスの娘のうち、唯一存命であったフランシスカ・デ・シルバ・ベラスケス・イ・パチェコとマドリードのサンティアゴ教会にて結婚した[3][4][2]。この時、フェリペ4世と首席大臣であったガスパール・デ・グスマンが夫妻の保証人となった。この結婚は将来的なマルティネス・デル・マーソの宮廷での成功を意味していた。ベラスケスは手早く王室の約束を取り付け、1634年2月23日には王の承認を得て、王の私室の取次係の地位をマルティネス・デル・マーソに譲っている[4]。このことから、デル・マーソはすでにベラスケスの弟子であり、義理の父と密接な関係を築いていたと推測される。ベラスケスはマルティネス・デル・マーソのさらなる立身と安定の後ろ盾となり、マルティネス・デル・マーソとその将来の子供のために宮廷での登用を確保した。 1643年には、スペイン王太子であるバルタサール・カルロス・デ・アウストリアの専属画家となった。1645年にはバルタサール・カルロスはマルティネス・デル・マーソの5番目の子供の名付け親となっている。バルタサール・カルロス王太子はパウル・デ・フォスやルーベンス、ヨルダーンス、他のフランドル画家の狩りを描いた絵画の複製を任じた。[1] 1646年、デル・マーソは王太子に同行しアラゴンへと向かった。このとき、代表作の一つである『サラゴサ眺望』 (Vista de Zaragoza) と、旅行中に16歳で急死した王太子の最後の肖像画が描かれた。王太子の死後、フェリペ4世はデル・マーソが受けていた特権をそのままとするよう命じ、宮廷画家として雇い続けた。 デル・マーソの才能の最初の発露は、デル・マーソに任じられた王室が収集していたヴェネツィアの巨匠であるティントレット、ティツィアーノ、パオロ・ヴェロネーゼの丹念に実行された複製画の成功にある。
生涯
半生
デル・マーソ『緑のドレスの王女マルガリータ・テレサ』ベラスケス『青いドレスの王女マルガリータ・テレサ』