フアン・アントニオ・バルデム
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の)はバルデム、第二姓(母方の)はムニョスです。

フアン・アントニオ・バルデム
本名Juan Antonio Bardem Munoz
生年月日 (1922-06-02) 1922年6月2日
没年月日 (2002-10-30) 2002年10月30日(80歳没)
出生地 スペイン王国マドリード県マドリード
死没地 スペインマドリード州マドリード
国籍 スペイン
職業脚本家映画監督
活動期間1951年-1997年
配偶者マリーア・アグアド・バルバド
著名な家族ラファエル・バルデム(スペイン語版)(父)
マティルデ・ムニョス・サンペドロ(スペイン語版)(母)
ピラール・バルデム(スペイン語版)(妹)
ミゲル・バルデム(スペイン語版)(息子)
ハビエル・バルデム(甥)

 受賞
カンヌ国際映画祭
国際映画批評家連盟賞
1955年『恐怖の逢びき』
1958年『La Venganz』
ヴェネツィア国際映画祭
国際映画批評家連盟賞
1956年『大通り』
ベルリン国際映画祭
国際映画批評家連盟賞
1963年『無実の人』
ゴヤ賞
名誉ゴヤ賞
2002年
その他の賞
モスクワ国際映画祭
最優秀作品賞
1977年『El Puente』

テンプレートを表示

フアン・アントニオ・バルデム(スペイン語: Juan Antonio Bardem, スペイン語発音: [xuan ba??den], 1922年6月2日 - 2002年10月30日)は、スペインマドリード出身の脚本家映画監督
人物

同時代のスペインに生まれた映画監督、ルイス・ブニュエル(Bunuel、1900年生)、ルイス・ガルシア・ベルランガ(Berlanga、1921年生)とともに「3人の優れたB」と呼ばれ[1]、やや後年のカルロス・サウラ(Saura、1932年生)を加えて「3B1S」と呼ばれることもある[2]。2002年度には名誉ゴヤ賞を受賞し、2011年にはマドリード・ウォーク・オブ・フェーム(スペイン語版)のひとりに選ばれた。
経歴
国立映画研究所時代

1922年6月2日にマドリードに生まれた。それぞれ俳優・女優だった両親の希望で、スペイン内戦後の1943年に大学に入学して農業工学を学び[3]、1946年にはスペイン政府農業省で働きはじめた[4]。1947年に国立映画研究所が設立されると1期生として入学[5]。しかし、卒業制作は教授陣に認められず、映画監督のクレジットに必要な監督資格を授与されなかった[5][3][4]

1950年にマドリードのイタリア文化会館で開催された映画祭でイタリアのネオレアリズモに強い影響を受け、映画研究所同期のルイス・ガルシア・ベルランガと共同で脚本・監督を務めて1951年に『あの幸せなカップル』を撮った[3][4]。この映画は公開までに2年間を要したため、再びベルランガと共同で脚本を書いて『ようこそ、マーシャルさん!』を完成させた[3]。『ようこそ、マーシャルさん!』はスペイン映画が国際舞台で評価を受けるきっかけを作った映画とされ[6]、1953年のカンヌ国際映画祭でユーモア映画・脚本賞を受賞[7]。バルデムとベルランガは新時代のスペイン人映画監督の象徴的存在だったが作風は異なり[8]、バルデムは辛辣な社会批判を盛り込んだシリアスなドラマを好んだが、ベルランガはブラックユーモアあふれるコメディを好んだ[9]
国際映画祭での高評価

1954年の『役者』はかつて書いた脚本を基に撮影した作品であり[3]第7回カンヌ国際映画祭のコンペティション部門に出品されている。当時のスペインはフランコ独裁時代であり、スペイン映画が国外で上映されるのは稀なことだった[10]。1953年には映画雑誌「レンズ」を創刊しており、同誌とサラマンカ大学生協映画クラブは1955年5月にサラマンカで国民映画会議を主催[11]。この会議にはバルデムやベルランガの他に、俳優・監督のフェルナン・ゴメス、小説家のビスカイーノ・カサス、言語学者のフェルナンド・ラサロ・カレテールなどが参加し[12]、検閲や映画批評のあり方、法制度や労働契約などが話し合われている[13]。バルデムがスペイン映画に対して「政治的には無効、社会的には偽り、知的には最低、美的には無価値、そして、産業的には脆弱」と分析したことは後々まで語り草となっている[12][5]。これを機にスペイン各地に映画クラブが誕生し、サラマンカ国民映画会議はスペイン映画史における歴史的事件のひとつとなった[13]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:61 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef