ファースト・フリート
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ファースト・フリートがポートジャクソン湾に入港する様子を描いた銅版画。

ファースト・フリート (The First Fleet)、日本語に訳すると「最初の植民船団」とは、1787年5月13日イギリスからニューサウスウェールズ植民地に、派遣された11隻の船団のことである。この船団の乗組員は、オーストラリア大陸におけるヨーロッパ人最初の入植者となる。1788年1月26日、現在のシドニー湾に到達し、オーストラリア植民地としての歴史が始まることとなった。彼らのシドニー湾に上陸した日は、オーストラリアでは、オーストラリアの日という祝日となっている。
背景

18世紀のイギリスは、農業革命囲い込みが進展し土地を失った農民、産業革命による失業者等が、都市部に流入していった。しかし、彼らの生活は貧しいものであり[1]、都市では、彼らの手によって、多くの軽微な犯罪も頻発した[1]。当時の微罪に問われた者でも収監する法制度もあいまって、犯罪者となった彼らは刑務所に収監されたものの、刑務所はすぐに満員となり、更には外洋航海には適さなくなったハルクと呼ばれる船舶に収容されるようになった[1]。ただ、ハルクの環境は劣悪であり、すし詰め状態であった[1]。そのために、イギリス政府は、軽微な犯罪を犯した囚人であったとしても、彼らを処理するためにも、海外植民地に流刑することとした。

イギリスでは、もともと、流罪として審判された囚人は、北米13植民地に流されていた。1717年から1776年の間に、約4万人の囚人がイギリスからアメリカにわたった[2]。しかし、1783年アメリカ独立戦争が終結し、北米の植民地を喪失すると、新たに建国されたアメリカ合衆国は、イギリスからの流刑者の受け入れを拒否した[1]。さらに、イギリス国内の人口の増加を海外植民地に移住させることで解消する必要性にも迫られていた[3]

以上の経緯を経て、1785年12月1日枢密院勅令に基づき、1770年ジェームズ・クックが処女航海に成功した太平洋地域に新たな流刑植民地を建設することを決定した[4] [5]

イギリスは、ニューサウスウェールズ以外にも複数の箇所で流刑植民地を模索していた。候補として挙がっていたのが、西インド諸島カナダアフリカ西海岸などであった[2][6]。しかしながら、カナダは、寒いために自給自足のシステムを作ることが困難であったことから、候補から外れた[6]。アフリカは、熱帯病や風土病で軍人や行政官が病に倒れるなど、新植民地の建設には不適当であった[6]。一方で、ニューサウスウェールズは気候も温暖であり、自給自足も可能であることから、新たな流刑植民地として選ばれた[7]

1786年9月アーサー・フィリップ予備役海軍士官がファースト・フリート総司令官に指名された[2]。フィリップは、オーストラリア到達後には、初代ニューサウスウェールズ総督となることが決定した[2][3]。次いで、副総督として、ロバート・ロス(英語版)、法務官として、デーヴィッド・コリンズ(英語版)を任命した[8]
船団の構成旗艦・シリウス号。シリウス号は、のちに、ノーフォーク島で沈没する。絵は、その時の光景を描いたもの。 「キングストンとアーサーズ・ヴェールの歴史地区」も参照

ファースト・フリートは、11隻の船で構成されている。旗艦が、20門の大砲を備えた帆船であるシリウス号(英語版)である。シリウス号の指揮は、後にニューサウスウェールズ植民地総督となるジョン・ハンターによって行われた。シリウス号とは、別に8門の大砲を備えたサプライ号(英語版)が船団の護衛に就いた。

囚人を輸送するためには、6隻の船が用意された。アレクサンダー号(英語版)、シャーロット号(英語版)、フレンドシップ号(英語版)、レディ・ペンリン号(英語版)、プリンス・オブ・ウェールズ号(英語版)、スカボロー号(英語版)の6隻である[9]

船団の2年分の食料や衣類、農具などを運ぶ輸送船として、3隻の船が用意された。ゴールデン・グローヴ号(英語版)、フィッシュバーン号(英語版)、ボロウデール号(英語版)の3隻である[9]

11隻の船団のレプリカは、シドニー博物館(英語版)に展示してある。また、シドニー湾内を運行するシドニー・フェリーズ(英語版)のフェリーの名前は、ファースト・フリートの船の名前にちなんだものがつけられている。
船団の人々

ファースト・フリートの人々のほとんどはイギリス人だったが、アフリカ人アメリカ人フランス人の囚人も乗船していた[10][11]。船団の人々は、船員、海軍の兵士とその家族、政府の役人、そして大勢の囚人たちであり、女性や子供も含まれている。囚人たちは、窃盗偽証詐欺暴行強盗などをの多様な犯罪を犯していた。これらの囚人には、7年や14年、あるいは無期の流刑が言い渡されていた[12][13]

6隻の囚人輸送船には、それぞれ海軍の兵隊も分かれて乗り込んだ。海兵たちの家族の多くは、プリンス・オブ・ウェールズ号で航海した[14]。ファースト・フリートの幾人かの人々は自らの経験について、日記や記録をつけていた。この中には船医も含まれる。知られている12の日誌(英語版)といくつかの手紙が存在する[15]

船団の人数の正確な数はさまざまであり、確定していない。最も知られているものでは、船団の合計は1,420人で、翌年、シドニーに到着した際には、1,373人であるというものである。下記の表は、モーリー・ギレン(Mollie Gillen)が調査した人数のものである[16]

ポーツマスで乗船した人数シドニーに上陸した人数
公務員や乗客1514
船員323269
海兵247245
海兵の妻や子供4645 + 9 (航海中に出生)
男性囚人582543
女性囚人193189
囚人の子供1411 + 11(航海中に出生)
合計1,4201,373

一方で、初代ニューサウスウェールズ植民地総督となったアーサー・フィリップによると、船団の合計は1,030人で構成されているとしている[17]


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