ファヴェーラ
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リオデジャネイロ市のヴィディガル(ビジガル、Vidigal)のファヴェーラ。イパネマ海岸のシェラトンホテル(右)の裏に広がる。

ファヴェーラ(: favela、ファヴェラ、ファベーラとも)は、ブラジルにおいてスラムや貧民街を指す言葉。

ブラジルのほぼすべての大都市および中規模都市の郊外には、不法居住者の建てた小屋の並ぶファヴェーラや、既存の町がスラム化したファヴェーラが存在する。中でもリオデジャネイロ市のファヴェーラがもっとも有名で、カリオカ(リオ市民)の4人に1人はファヴェーラに住むとされる[1]。ほとんどのファヴェーラは、公有地や所有権を巡って係争のある土地などを不法占拠する形で小屋や家屋が築かれたものであるため、一般的にブラジルの各州政府や自治体は、ファヴェーラの存在を法的実体として認知していない。

ファヴェーラの建物は非常に建て込んでおり、一軒一軒も狭く、地形に合わせた階段や通路が家々の隙間を通っている。このため、自動車は通行できないことが多い。建物はコンクリートレンガで造られた家から、廃材で作られた家まで様々であるが、いずれも無断で建てられている。おおむね衛生状態は悪く、下水処理や伝染病に悩まされている。ファヴェーラによっては家々に電気が通り、夜には明かりがきらめくが、これは付近の電線からの盗電である。都市周囲の山の斜面に建てられたファヴェーラも多く、大雨の後に地滑りが起こり大勢の犠牲者が出ることも相次いでいる。

ファヴェーラの人々は、域外の都心などで低賃金の仕事に就くことが多いが、失業ドラッグギャング同士の抗争といった社会問題も深刻である。
歴史

ファヴェーラという名称の起源は、ブラジル北東部ステップ気候の地方に生える、トウダイグサ科のとげの多い葉の植物pt:Cnidoscolus quercifoliusに由来する[2]1895年から1896年にかけて北東部バイーア州で、自称助言者のアントニオ・コンセリェイロとその信者たちがカヌードス(ポルトガル語版)の町を築き、政府との間でカヌードス戦争が起こった。政府は反乱軍の鎮圧のために元奴隷の黒人らを徴兵した。徴兵された兵士らはカヌードス戦争が政府の勝利で終わり任務を解かれると大都市へと流れ、多くは当時の首都リオデジャネイロに移住したが、政府は彼らに住居を提供することができなかった[3]。結局1897年11月、元兵士らはリオデジャネイロのモーホ・ダ・プロヴィデンシア(Morro da Providencia)という丘にあった公共の土地に、自分たちで家を建てた。彼らは新しい街を、カヌードスの反乱軍との勝利の地に生い茂っていた植物にちなみ、モーホ・ダ・ファヴェーラ(Morro da Favela)と名付けた。

やがてカヌードスの元兵士に代わり、奴隷から解放された自由黒人らがファヴェーラに流入し、ファヴェーラは黒人を主としインディオメスティーソらも住む貧民街へと変わっていった。ファヴェーラの町が建設されるより前から貧しい黒人は都心から郊外へと押しやられていたが、都心で歓迎されない黒人たちにとって、ファヴェーラは働き口の多い都心に近い位置にあり、ちょうどいい移住先となった。

ファヴェーラの町が建設される前にも、逃亡した黒人奴隷が築いた村落・キロンボ(quilombo)がリオデジャネイロ周辺の山の斜面に点在しており、1888年に奴隷制度が廃止されると同時に行き場のない黒人たちが流入して大きくなっていた。ファヴェーラは都市が過密化したり不動産への関心が今日のように高まったりする前に形成されている。1940年代には住宅危機が起こり、都市部の貧民たちは郊外に無数のバラック街を築いた。この時期、貧しいリオ市民の主な居住地は、集合住宅や小さな家からファヴェーラへと代わる。ファヴェーラの爆発的成長は、1940年代にジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガスが産業化を進めて数多くの国民が大都市へ、特にサンパウロや当時は首都で連邦区だったリオデジャネイロへと流入した時期、および1970年代にファヴェーラがリオデジャネイロ市の範囲を超えて都市圏の外縁部まで達した時期にあたる[4]。今日のファヴェーラの多くは、建設ブームで大都市に地方の農民らが流入した1970年代がピークであった。低層住宅の立ち並ぶスラム化した地区から溢れた人々は、丘の上に不法居住の家屋を築いていった。ファヴェーラはどれも異なった時期に異なった経緯で形成されているが、最終的には貧困層の住む地域という共通点を持つに至っている。 リオデジャネイロ最大のファヴェーラ、ホシーニャ(Rocinha)。
ファヴェーラ撤去計画

ファヴェーラの爆発的拡大を受けて、ブラジルの政府はファヴェーラ撤去運動に乗り出した。1940年代の「Parque Proletario(労働者公園)」計画では、リオの貧困スラムが撤去され、住民たちは新しい公営住宅に建て変わるまでの間小屋などに仮住まいした[5]。しかし公営住宅は少量しか造られず、住宅改良工事のために更地になった場所に新たなファヴェーラが誕生しただけだった。

1955年レシフェ司教でリオデジャネイロ補佐司教エルデル・カマラは、連邦区の財政支援を受け、当時最大のファヴェーラであったPraia do Pintoに集合住宅群を建てるという計画「Cruzada Sao Sebastiao」(聖セバスティアヌスの十字軍、セバスティアヌスはリオの守護聖人)という名の計画を立ち上げた。この「十字軍運動」は、ファヴェーラ生活の悪徳を断ち切る意思のある者だけを新住宅に入居させ、彼らを受け入れられやすい市民とすることであった。

1970年代の軍事政権時代にも、貧者のための住宅計画という名目でファヴェーラ撤去計画は活発化した。しかし実際に起こったことはファヴェーラの解体と、その住民がより郊外の生活基盤のない土地へと移転させられた事態であった[5]。ファヴェーラの跡地には安い郊外住宅ができたが、そこからファヴェーラ旧住民に配分される利益では、旧住民らが新しい住宅に入るだけの収入とはならず、この計画は破綻していった[6]
ファヴェーラでの生活

ファヴェーラに住む人々はファヴェラドス(favelados)と呼ばれる。最初のファヴェーラの住民はアフリカ系住民で、現在も主体であるが、19世紀のヨーロッパからの貧しい移民流入に伴い、白人系の住民もファヴェーラに入ってきた。ファヴェーラの住民はかつては人種的不平等や人種差別による扱いを受けていたが、現在では経済的理由から差別されている[5]


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