ファン・パブロ・モントーヤ
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ファン・パブロ・モントーヤ

基本情報
フルネームファン・パブロ・モントーヤ・ロルダン
略称表記MOY
国籍 コロンビア
出身地同・ボゴタ
生年月日 (1975-09-20) 1975年9月20日(48歳)
F1での経歴
活動時期2001-2006
所属チーム'01-'04 ウィリアムズ
'05-'06 マクラーレン
出走回数96
タイトル0
優勝回数7
表彰台(3位以内)回数29
通算獲得ポイント307
ポールポジション12
ファステストラップ12
初勝利2001年イタリアGP
最終勝利2005年ブラジルGP
最終戦2006年アメリカGP
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ファン・パブロ・モントーヤ・ロルダン(Juan Pablo Montoya Roldan, 1975年9月20日 - )は、コロンビア出身のレーシングドライバー

CARTの1999年度シリーズチャンピオン。2001年から2006年シーズン途中までF1に参戦、コロンビア人としてはロベルト・ゲレーロに次ぐ2人目のF1ドライバーとなった。2006年シーズン中盤よりNASCARに参戦している。

日本ではJ・P・モントーヤと、またアメリカ合衆国ではCART参戦時の登録名から、ファン・モントーヤ (Juan Montoya) と略されることが多い。フジテレビF1中継でのニックネームは「コロンビアの暴れん坊」。
プロフィール
カートからF3

コロンビアの首都ボゴタ出身。幼少よりカートレースで成功を収め、F1を目指し1995年(当時19歳)渡欧しヨーロッパでのレース活動を始める。フォーミュラ・ボクソール、イギリスF3を経て、RSMマルコに加入し1997年の国際F3000選手権にステップアップ。シーズン3勝を挙げランキング2位となる[1]。F3000初年度にタイトル争いを演じた才能に注目したウィリアムズF1チームとテストドライバー契約を結ぶ。
F3000とCART

1998年の国際F3000選手権ニック・ハイドフェルドとのチャンピオン争いを制しシリーズチャンピオンを獲得し、1999年のウィリアムズF1レギュラー昇格が噂されたが、CART王者となったアレックス・ザナルディがウィリアムズでF1復帰することになり、モントーヤのF1デビューはこの時は実現しなかった。しかし、ザナルディとシートを交換する形でCARTのトップチーム、チップ・ガナッシと契約しCARTシートを獲得。ヨーロッパから北米へ渡った。

1999年、モントーヤはルーキーながら難なくCARTスタイルに順応し、速さでセンセーションを巻き起こす。ダリオ・フランキッティと熾烈なタイトル争いを繰り広げ、最終戦終了時に同得点で並び、勝利数の差(モントーヤ7勝、フランキッティ3勝)でデビューシーズンのチャンピオンを獲得(デビュー年での獲得は1993年のナイジェル・マンセル以来)。CART史上最年少でのチャンピオンとなった。

翌年はチームの体制変更によりタイトル防衛は成らなかったが、トヨタエンジンのCART初勝利を含む3勝を挙げ、伝統のインディ500でも優勝。この活躍により、2001年のウィリアムズF1チームのレギュラーシート獲得が決定した。
F1

F1においてもモントーヤは最初から大胆さを発揮し、2001年シーズンの第3戦ブラジルGPでは王者ミハエル・シューマッハを追い抜き、あわやデビュー3戦目で初優勝かと思われたが、周回遅れのヨス・フェルスタッペンに追突され、リタイアに終わる。フェラーリの総合力には及ばぬものの、モントーヤはウィリアムズ・FW23の強力なBMWエンジンを利して、ドイツGPで初ポールポジションを記録。敵地イタリアGPではポール・トゥ・ウィンでF1初勝利を達成した。

2002年は優勝こそ無かったが、フェラーリがシーズンを席巻する中で、M.シューマッハと並ぶ7回のポールポジションを獲得し速さを見せた。

2003年には同僚ラルフ・シューマッハと共に快走し、2勝を挙げてシリーズランキング2位で終盤戦を迎えたが、アメリカGPでの雨とペナルティの影響でチャンピオンを逃した。

2004年には、開幕直前にもかかわらず翌年のマクラーレン移籍を発表。この年は、ウィリアムズ・FW26の新型フロントウィングが失敗し、シーズン中盤に旧型に戻すなど苦戦を強いられ、優勝は最終戦ブラジルのみに留まった。

2005年、マクラーレン・メルセデスに移籍。MP4-20で3勝を挙げ、イタリアGPでは予選でF1史上最速記録となる372.6 km/hも記録したものの、脚光はタイトル争いを繰り広げたチームメイト、キミ・ライコネンに集中した。シーズン序盤には骨折(プライベイトでのテニス中に負ったと報道されている)で2戦を欠場。シーズン後半はセカンドドライバー的な立場を強いられた。

2006年はエンジンレギュレーション変更でV10エンジンが禁止され2400ccV8となり、マクラーレン・MP4-21に搭載されるメルセデスも長く使用してきたV10からV8へと変更され、空力的にも大きくアレンジされたマシンであったが、上位にはつけるが優勝を争うことができず、未勝利が続くなか第10戦アメリカGPではスタート直後にライコネンと同士討ちを演じる。その直後、チームとドライバーが合意の下で契約を解除することが発表され、マクラーレンを離脱。シーズン中盤であったがF1を離れ、古巣チップ・ガナッシの仲介で活動の場をNASCARに移すこととなった。
NASCAR

NASCARではブッシュシリーズにアトランタから参戦を果たす。2007年よりチップ・ガナッシ・レーシングからNASCARネクステルカップ(現スプリントカップ・シリーズ)に参戦。
インディカー

2014年、チーム・ペンスキーからインディカー・シリーズに復帰、ポコノ・レースウェイでの第11戦で復帰後初勝利を飾るなど、ランキング4位の活躍を見せる。

2015年、この年のインディ500において、序盤に一度リードラップ最後尾まで落ちたものの、そこから追い上げて中盤以降は終始トップ争いに絡み、15年ぶり自身2度目の優勝を飾る。この優勝は、A.J.フォイトの10年を抜き、最も長い間隔を空けてのインディ500複数優勝であった。
記録

四輪レース界で世界3大レースといわれる3つのうち、モントーヤはインディ500(2000年、2015年)とモナコGP(2003年)を制覇している。

また、2007年1月にデイトナ・インターナショナル・スピードウェイで行われたRolexデイトナ24時間レースにおいて、スコット・プルーエットと共に出場し、初出場ながら優勝した(翌年も連覇)。
レース戦績2005年アメリカGP予選にてMP4-20をドライブするモントーヤ

1995年

イギリス・フォーミュラ・ボクスホールにポール・スチュワート・レーシングより参戦。3勝、3PPを記録しシリーズ3位。


1996年

イギリスF3にフォーテック・モータースポーツシリーズ(ダラーラF396・三菱HKS)より参戦。2勝、1PPを記録しシリーズ5位。

マルボーロ・マスターズ・F3に同チームより参戦し、総合4位。

国際ツーリングカー選手権メルセデス-AMG(Cクラス)を駆ってスポット参戦。


1997年

国際F3000にRSM Marko(ローラT96/50・ザイテック)から参戦。3勝、2PP、3FLを記録しシリーズ2位。

ウィリアムズのテストドライバーに抜擢される。


1998年

国際F3000にスーパーノヴァ(ローラT96/50・ザイテック)より参戦。4勝、7PP、5FLを記録しチャンピオンを獲得。

引き続きウィリアムズのテストドライバーを務める。


1999年

CARTシリーズチップ・ガナッシレイナード99I・ホンダ)より参戦。7勝、7PPを記録して参戦初年度でチャンピオンを獲得。


2000年

CARTシリーズにチップ・ガナッシ(ローラB2K/00・トヨタ)から参戦。3勝、7PPを記録しシリーズ 7位。

インディ500に同チーム(Gフォースオーロラ)より参戦。LLを記録してデビュー戦で優勝。


2001年

F1世界選手権ウィリアムズ(ウィリアムズFW23BMW)より参戦。1勝、3PP、3FLを記録しシリーズ6位。


2002年

F1世界選手権にウィリアムズ(ウィリアムズFW24・BMW)より参戦。入賞12回(最高位 2位)、7PP(5連続を含む)を記録しシリーズ3位。


2003年

F1世界選手権にウィリアムズ(ウィリアムズFW25・BMW)より参戦。2勝(モナコGPを含む)、1PP、3FLを記録しシリーズ3位。


2004年

F1世界選手権にウィリアムズ(ウィリアムズFW26・BMW)より参戦。1勝、2FLを記録しシリーズ 5位 。


2005年

F1世界選手権にマクラーレン(マクラーレンMP4-20メルセデス)より参戦。3勝、2PP、1FLを記録しシリーズ4位。


2006年

F1世界選手権にマクラーレン(マクラーレンMP4-21・メルセデス)より参戦し、シリーズ8位。第10戦アメリカGPを最後にチームを離脱し、残りレースのシートをペドロ・デ・ラ・ロサに譲った。

アメリカに戻ってストックカーに転向することを発表。デビュー戦のARCAフードワールド250シリーズで予選2位、決勝3位を記録。


2007年

デイトナ24時間レースにテルメックス・チップ・ガナッシ(レクサス-ライリー)より参戦し、初出場で総合優勝。

NASCAR・ブッシュシリーズのメキシコ戦で初優勝を挙げる。

6月24日 NASCAR・ネクステルカップシリーズにチップ・ガナッシから参戦し、ソノマ(インフィニオン・レースウェイ(ロードコース))で優勝。カップ戦では初となるアメリカ人以外の優勝者となる。


2008年

デイトナ24時間レースにテルメックス・チップ・ガナッシ(レクサス-ライリー)より参戦し、2連覇を達成する。


2009年

NASCARスプリントカップ・シリーズにチップ・ガナッシから参戦。チェイス・フォー・ザ・スプリントカップ(プレーオフ)にアメリカ人以外で初めての進出を決める。


2010年

NASCARスプリントカップ・シリーズにチップ・ガナッシから参戦し、シリーズランキング17位。第22戦ワトキンスグレン(ロードコース)で優勝。


2014年

NASCARを離れインディカー・シリーズに復帰、チップ・ガナッシのライバルチームであるペンスキーから参戦、第11戦ポコノで優勝。シリーズランキングは4位だったが、オーバルコースでの獲得ポイントに限れば1位であった。


2015年

前年に引き続きペンスキーから参戦。開幕戦セントピーターズバーグで勝利し、インディ500において15年ぶり、自身2度目の優勝。シーズン2勝を含む表彰台4回の成績を残し、開幕から一度もランキングトップを譲ることはなかったが、最終戦で同点に追いつかれ、優勝回数の差でシリーズチャンピオンを逃す。


2016年

2年連続で開幕戦セントピーターズバーグで勝利するが、今シーズンはこの1勝にとどまりシリーズランキングは8位に後退。この年をもってレギュラードライバーの座をジョセフ・ニューガーデンに明け渡すこととなった。


2017年


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