ファン・デル・ヴェルデン
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Bartel Leendert van der Waerden

生誕 (1903-02-02) 1903年2月2日
オランダアムステルダム
死没1996年1月12日(1996-01-12)(92歳)
スイスチューリッヒ
国籍 オランダ
研究分野数学
研究機関ライプツィヒ大学
チューリッヒ大学
フローニンゲン大学
出身校アムステルダム大学
ゲッティンゲン大学
博士課程
指導教員Hendrik de Vries
博士課程
指導学生David van Dantzig
Herbert Seifert
主な業績ファン・デル・ヴェルデン表示
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バーテル・レーンデルト・ファン・デル・ヴェルデン(Bartel Leendert van der Waerden (オランダ語: [v?n d?r ??a?rd?(n)])、1903年2月2日 - 1996年1月12日)は、オランダ数学者数学史家
経歴
教育、初期の経歴

1919年から1926年までアムステルダム大学ゲッティンゲン大学で高等数学を学んだ。ゲッティンゲンではエミー・ネーターから多大な影響を受けた。Hendrick de Vriesの指導の下代数幾何学の論文でアムステルダム大学からPh.D.を授与された[1]。ゲッティンゲン大学からは1928年にハビリテーションを授与された。その年、25歳でフローニンゲン大学の教授職を得た。

27歳の時、抽象代数学に関する影響力のある2巻の論文Moderne Algebraを発表した。この著作は現在でも引用されており、おそらくこの主題を包括的に扱った最初の論文である。この研究はエミー・ネーターダフィット・ヒルベルトリヒャルト・デデキントエミール・アルティンによる広範な研究を体系化した。翌年の1931年にはライプツィヒ大学の教授に任命された。

1929年7月、数学者Franz Rellichの姉妹であるCamilla Juliana Annaと結婚し、3人の子どもをもうけた。
ナチスドイツ

第三帝国の台頭と第二次世界大戦の間、ライプツィヒに残り、ナチスドイツを離れプリンストンユトレヒトに移る機会を断った。しかし、ナチスに対して批判的でありオランダ国籍を放棄することを拒否したため、その両方が困難をもたらすことになった。
戦後の経歴

戦後、ライプツィヒ(ソ連の支配下にあった)に戻るのではなくオランダへ送還されたが、ドイツにいた時間が政治的疑念を生んだこともブラウワーがヒルベルトの数学学校に反対していたこともあり、オランダで学術システムで役職につくのに苦労した。1年後にジョンズ・ホプキンズ大学へ行き2年間非常勤教授として働いた後、1950年にアムステルダム大学で数学長を務めた。1951年、チューリッヒ大学へ移り、そこで残りのキャリアを過ごし、40人以上のPh.D.学生を指導した。1969年コテニウス・メダル受賞。
功績

主に抽象代数学における研究で有名である。また、代数幾何学位相幾何学数論幾何学組み合わせ数学解析学確率統計学量子力学(ハイゼンベルクとはライプツィヒでの同僚であった)についても書いた。晩年には数学史科学史にも取り組んだ。歴史的著作には、Ontwakende wetenschap (1950)(英題はScience Awakening (1954)), Sources of Quantum Mechanics (1967), Geometry and Algebra in Ancient Civilizations (1983), A History of Algebra (1985)がある。

1000人以上の学問的子孫がいるが、そのほとんどは3人の学生David van Dantzig (Ph.D. フローニンゲン 1931)、Herbert Seifert (Ph.D. ライプツィヒ 1932)、Hans Richter (Ph.D. ライプツィヒ 1936, パウル・ケーベとともに指導)によるものである[1]

日本では「現代代数学」がよく読まれている[2]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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