ファルージャの戦闘
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その他の用法については「ファルージャの戦い」をご覧ください。

ファルージャの戦闘(ファルージャのせんとう)は、イラクファルージャにおいて2004年に発生したアメリカ合衆国軍とイラク武装勢力との間の戦闘である。赤字の都市(Fallujah)がファルージャ
概要

ファルージャは首都バグダードの西方に位置し、スンナ派ムスリムの多いスンニー・トライアングルの中核をなしている。サッダーム・フセイン大統領政党バアス党の幹部を輩出するなど、サッダーム支持者が多く、1991年湾岸戦争2003年イラク戦争で激しい反米運動を展開するなど、暫定統治にとって障害となっていた。
スンニー・トライアングルにおける武装抵抗の背景

以下は[1] で要約されている米国防大学Institute for National Strategic Studiesの上席研究員であるJudith Yapheの見解である。

サッダーム・フセインの支持基盤であったこと。サッダーム統治時代に受けていた恩恵が途絶え、同政権がシーア派やクルド人に強いた困窮に追い込まれるという今後への恐れ。

スンナ派アラブ人が多く、汎アラブ主義思想が根強い。サッダームもスンニー・トライアングルの出身であり、部族制を根底に抱えていた。

サッダームが資金を振りまいて忠誠をかちえた部族が地域に存在し、これら部族からは旧イラク陸軍、共和国防衛隊(RG)、情報機関、その他政権要部に人材を輩出している。一方でサダムに対するクーデター謀議の多くはこの地域から起こっている。

スンナ派アラブ人はオスマン帝国統治時代、英国委任統治時代を通じてイラクの統治者層をなしており、これはフセイン政権期も同様であったこと。現在スンナ派アラブ人は統治者層からは駆逐され、今後のなりゆきを恐れている。

歴史的伝統に根ざし、エリート意識とエリートとしての義務といった誇りが根付いている。

その地位を奪ったアメリカ合衆国に対する憤激。支配の座から駆逐され苦難に遭っている原因をアメリカ合衆国だとみている。

イラク軍の解体とバアス党員追放による打撃。地域の多数の者が職を失いアメリカ合衆国の占領に対する抵抗の途を選んだ。

武装抵抗をしない部族、家族も、抵抗を少なくとも消極的に支持しており、通報することはない。

通報する者は占領に対する協力者とみなされて殺害される可能性が高い。

4月の戦闘に至る経緯

ファルージャ有志連合軍による占領以降、アメリカ陸軍アメリカ海兵隊の部隊が相次いで交代しつつ占領統治を行ってきた。ファルージャではスンナ派住民が多数を占めており、旧政権打倒後の米国の占領統治の拙劣さもあいまって米軍に対する感情は非常によくなかった。特に占領初期の2003年4月に米軍が重機関銃などを常設して基地として使用していた学校に集まった住民に対して発砲し15名以上を銃撃して殺害[2][3] したことで反米感情は一層深まっており、地域住民が武装して反米闘争を展開[4] し、米軍に退去を要求するデモが多発し、デモを鎮圧しようとする米軍と地域住民の間で度々武力衝突が発生、双方に死傷者が多数出ていた。

2004年3月31日、ESS社のトラックを護衛中[5] の四輪駆動車がファルージャ市内にて襲撃を受けた。車内にいた民間軍事会社ブラックウォーターUSA社のアメリカ人「警備員」(実態は傭兵に例えられることが多い。またイラク側から見れば米軍兵士と区別がつかないとされる)4人は即死した。そして、4名の死体は市中を引きずり回され、ユーフラテス河にかかる橋梁から吊り下げられた[6]。 

この事件は燃え盛る車両やその脇に横たわる遺体、橋に吊るされた黒こげの遺体といった衝撃的な映像とともに世界中で報道され、米国内では1993年のソマリア首都モガデシュにおけるブラックホークダウンを彷彿とさせるものであった。米軍は犯人を司直の手に委ねることをファルージャ側に要求したが受け入れられなかった。こうして、アメリカ第1海兵遠征軍を基幹とする連合軍は市街地であるファルージャに対する包囲を含む広範な作戦をアンバール県にて開始した[7]
4月の戦闘
作戦名称

米軍側の作戦呼称はOperation Vigilant Resolveである。
作戦の経過

シーア派とスンナ派が手を携えての米軍に対する一斉蜂起の可能性が懸念されていた情勢を踏まえて、シーア派の武装蜂起、イラクの政治家の発言、対応なども交えつつ以下に纏める。

3月29日 米側、シーア派系の反米的宗教指導者ムクタダー・サドル師の影響下にある週刊紙Al-Hawza Al-Natiqa が暴力を使嗾しているとして発禁処分。バグダードで群集が表現の自由の侵害であると抗議行動。同紙は60日間の発行停止処分の通告を受けていた[8]

3月31日 ファルージャで民間軍事会社の武装社員4名が殺害される。

4月1日 イラク警察、4名の遺体を回収し米軍に引き渡す。ポール・ブレマー連合国暫定当局(CPA)代表、ブラックウォーター社武装社員の殺害を非難。米軍報道官キミット准将は殺害に関わった者を狩り出すと発言。ファルージャ市街は奇妙な静寂に包まれており米軍の姿は見当たらずと特派員[9]

4月2日 イラク統治評議会、殺害を非難。ファルージャのウラマーら金曜日の礼拝の説教で4名の遺体損壊はイスラームの教えに背くと説教するも殺害自体を非難するに至らず[10]。米軍報道官キミット准将はファルージャの支配を回復するとしつつも、殺害者を司直の手に委ねれば強制力の行使は避けられ町の復興を再開できると発言。町の指導者らは殺害を非難する声明を発表[11]

4月3日 バグダードのサドルシティー(サドル師の父ムハンマド・サドル師にちなむ)で大規模な抗議行動。非武装でサドル派民兵組織マフディー軍が行進。バグダードから南のマフムーディーヤの警察署長が殺害される[12]

4月5日 米軍、ファルージャ市街入り口を土堤で封鎖。市街地を包囲し攻勢開始。参加兵力は米海兵隊1200名およびイラク治安部隊2個大隊。目撃者によると米軍航空機が住宅地区を爆撃。死者多数とのこと[13]。イラク警察、サドル師側近をシーア派指導者アブドゥルマジード・ホーイー師(対米穏健派)の殺害に関する容疑で逮捕 [14]

4月6日 米軍、市街地南東部の工場地区を奪取と伝える。市街には夜間外出禁止令が敷かれている。目撃者によると市街地には銃声と爆発音がこだましている[15]ラマーディーで米海兵隊12名戦死20名負傷[16]

4月7日 ファルージャで市街戦続く。マフディー軍、サドルシティーやバグダード南部で示威行動及び武装蜂起。ブッシュ大統領、ラマーディーでの大量の戦死を受けて決意揺るがずと発言[16]。 AP通信によるとモスクからはジハードの呼びかけが流れる。武装勢力の中には武器を手にした女性が見受けられる。また迫撃砲を持ち運んでいる者がいる[17]。モスクの一部施設から攻撃を受けたため米軍は爆弾を投下し破壊。死傷者数は両者で異なる[18]。サドル師、イラクの統治権限を米国への協力者でなく正直な人物へ渡せとの声明をナジャフにて発表。シーア派指導者アリー・スィースターニー師、連合軍のシーア派蜂起への対応を非難し両者に平静を呼びかけ暴力を非難[19]

4月8日 ブレマー代表の要請によりイラク内務相辞任す。ファルージャの病院関係者によると死者は280名から300名、負傷者は少なくとも400名。バグダードで献血、水、食糧の寄付を募りファルージャへ向けて運ぶ車列出発。アルジャジーラ、日本人人質3名の姿を放映 [20]


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